藩札
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河内国狭山藩では、天保6年(1835年)に銀札、翌7年(1836年)に銭札を発行した。銀札の引替所は池尻村の小谷六左衛門方であった。
丹南藩

河内国丹南藩からは、文政4年(1821年)に米の価格を銀単位で表示(「米弐升代銀壱匁」など)した米銀札を発行した。その他、明治期には、丹南引替役所から銭札を発行した。
岸和田藩

和泉国岸和田藩では、延宝4年(1676年)から藩札(銀札)を発行した。当初よりさまざまな引請人の銀札が発行されており、札遣いが盛んだったことがわかる。享保15年(1730年)の札遣い再開からは、領内の泉佐野の廻船問屋で加賀国銭屋五兵衛と並び称された豪商の食野家(めしのけ)などの引請による銀札が発行された。なお、岸和田藩は食野家から多額の借財を抱えており、藩財政は同家の強い影響下にあった。
伯太藩

和泉国伯太藩からは、宝暦5年(1755年)に領内の黒鳥村の黒川武左衛門が札元となって発行された。その他、仲村吉次郎、大植清左衛門が札元となった銀札が現存している。明治期には、銭札が発行された。
麻田藩

摂津国麻田藩は1万石程度の小藩としては例外的に、かなり早期の延宝5年(1677年)3月から藩札を発行した。これは、麻田藩領の多くが経済の中心地であった大坂に程近い摂津国豊嶋郡(豊嶋郷)、川辺郡(高平郷)にあったことによるものと考えられる。幕命により宝永4年(1707年)に一旦は発行を中止したが、その後、幕許を得て宝暦3年(1753年)7月に再度発行し、明治維新後まで継続した。なお、麻田藩は備中国にも飛地領を有し、同地でも藩札を発行した。
尼崎藩

摂津国尼崎藩は、経済活動の盛んな西宮、兵庫津を領し、更に大坂、伊丹に囲まれるという地理的条件のため、早期に藩札が発行された。尼崎藩札として確実なものは油屋庄右衛門を札元とした寛文10年(1670年)発行の札がはじめである。宝永の札遣い停止令を経て、享保15年(1730年)に西宮の町人を札元に登用した銀札を発行した。尼崎藩での銀札の引き請けは、家屋敷・田畑を抵当に多額の資金を無利子で得るという形式をとっていたため希望者が多く、札元は数十人に上った。

明和6年(1769年)に尼崎藩の経済の根幹であった西宮と兵庫津を含めた灘筋の村々が幕府領として上知され、藩財政に対する不安から藩札流通にも多大な影響が見られた。このため、庄屋層に管理を託していた旧札を回収して、新引替人による統一的な新札発行に切り替えられた。文政元年(1818年)には引き替えは泉屋利兵衛、樋口屋十郎右衛門、尼崎引替役所の3か所となった。しかしその後も数度新・旧札の切り替えが行われ、札元も入れ替わった。

明治初期には銀札は銭札に切り替えられ、金札も併せて発行された。明治新政府回収の際の引替率は、金札1両は1円、銭札五百文は4銭、百文は8厘であった。

また尼崎藩では、明和6年の西宮、兵庫津をはじめとする灘目筋村々の上知に伴って与えられた播磨国の飛地領においても、赤穂郡上郡村及び多可郡中安田村に置かれた会所で藩札を発行した。
三田藩

摂津国三田藩は近隣の尼崎藩、麻田藩などと同様にかなり早期の、元禄13年(1700年)から藩札を発行した。宝永の札遣い停止令を経て、元文5年(1740年)に、藩財政窮乏の緩和、藩経済の発展に対応した通貨量増大などを目的として藩札の発行を再開した。

三田藩が陣屋を置いた三田町は、周辺の摂津・播磨内陸部の国境地帯が幕府領、小藩領、関東諸藩の飛地領、旗本領等の錯綜地であったこともあり、商業の一大中心地として栄えた。また、酒造好適米の生産地である播磨国東部から酒造の一大中心地である摂津国武庫郡西宮町への陸路による輸送の重要な中継点にあたり、後に西宮町を含む灘地方(摂津国西部沿岸地域)における酒造業の飛躍的発展に伴って、三田藩領及び周辺の米も酒米として利用されるようになると、三田藩が藩領外の商人に対しても自藩領内での藩札の使用を義務付けていたこともあり、摂津国西部から播磨国東部にかけてのかなり広い地域で同藩の札は流通した。三田藩では領内のみならず、領外の多くの有力商人・農民をも自藩札の引請人としていた。ただし、三田藩本領、摂津国灘地域、播磨国東部地方では発行された札の図柄が異なっており、必ずしも相互の地域で一元的に流通していたわけではない。

なお、三田藩は丹波国氷上郡にも飛地領を有し、同地でも藩札を発行した。
高槻藩

摂津国高槻藩では、財政基盤が脆弱で、国産品の専売制も困難であったため、借入、頼母子講、御用金といった起債の形で財政難の対策としており、周辺の藩のような藩札の積極的な発行は明治元年(1868年) - 2年(1869年)まで待たねばならない。江戸期には、倹約を目的として、家中の贈答用に発行された銀札の音物(いんもつ)札のみが発行された。音物札はあらゆる贈答の機会に使用することが義務付けられていた。交付の際に額面の2%の手数料が必要であったが、正銀への交換は無料であった。
明石藩

播磨国明石藩札は畿内近国の諸藩からは少し遅れ、寛延3年(1750年)11月より、この時点で藩主であった松平氏(親藩、越前松平家庶流)によって発行された。このとき発行された札は五拾匁、拾匁、壱匁、三分、弐分の銀札であり、藩の勘定奉行管轄の銀会所が取り扱った。

明治維新後、廃藩置県によって明石藩が明石県を経て飾磨県となった明治5年(1872年)4月から明治6年(1873年)12月までの間、新通貨に引き替えられた。引替率は、拾匁札は3銭9厘、壱匁札は4厘、弐分札は1厘であった。

また美作国の飛地領においても、小原村の引替会所で藩札を発行した。
安志藩

播磨国安志藩は、近隣の大藩である姫路藩が文政3年(1820年)に札使いを再開したことに影響を受け、文政5年(1822年)に幕許を受けて銭札(銭匁札)を発行した。額面は十匁、五匁、一匁、三分、二分であり、後に同額面の銀札を併せて発行した。同藩では、溜池普請、洪水被害を受けた村々への救済が藩札によって行われたことが史料に記されている。同藩が発行した特殊な藩札として、額面が郷人足一人、半人の郷人足札、三百目から二十目までの銀建ての高額面の札である銀方札座札がある。明治4年(1871年)より新通貨に引き替えられた際の引替率は、銀十匁札は1銭、銭十匁札は9厘、壱匁札は銀札、銭札共に1厘であった。
小野藩

播磨国小野藩では江戸大火による上屋敷の類焼、地震被害等で財政が逼迫し、安政3年(1856年)より、銀札として五文目(匁)、一文目、二分、一分の4種を引替会所が発行した。また明治維新後、銭札として一貫文、五百文の2種を発行した。銭札には偽造防止のため神代文字が描かれている。明治4年より新通貨に引き替えられた際の引替率は、五匁札は1銭3厘、壱匁札は3厘、弐分札は2厘であった。
龍野藩

播磨国龍野藩では、最も古いものとしては文化2年(1805年)8月発行の銭札が現存している。文化15年(1818年)には引請人を掛屋の茂右衛門と丈左衛門とし、城下の立町に引替所を置いて藩札の取り扱い業務を行わせた。のち、安政3年(1856年)8月には俵屋・大川屋の引請の札、半田屋・栄屋の引請の札が発行された。
林田藩

播磨国林田藩では、近隣の大藩姫路藩の札遣いとほぼ同時期の文政2年(1819年)11月より藩札(銀札及び銭匁札)を発行した。額面は、銭匁札では、銭10匁、5匁、1匁、5分、3分、2分、5厘であった。明治元年(1868年)に銀遣いが新政府により禁止されると、多くの西国他藩と同様に両・分・朱を額面とした金札を発行した。


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