Aプロダクションの経理を経てシンエイ動画の専務取締役・プロデューサーを務めた別紙壮一は義理の弟(妻の妹の夫)にあたる。[4] 兵役免除が目的で第二次世界大戦中に入学した京都大学は、戦後になるとすぐに中退。大阪の大丸百貨店に勤務しながら人形劇を始める[5]。 清水浩二主宰の人形劇団「ひとみ座」の大阪公演を手伝ったことをきっかけに、1956年(昭和31年)1月、28歳のときに同劇団へ入団[6]。初めは台本作家を志して、脚本の執筆に挑んだが、やがて演技部に所属して、営業と声優を兼ねていた。36歳になる1963年(昭和38年)、「ひとみ座」がTBSと横山光輝原作の人形劇『伊賀の影丸』制作の契約を締結した際に、担当は既に営業に専念していた藤岡になった。このとき、藤岡は「ひとみ座」傘下に「東京人形シネマ」を設立し、1年間『伊賀の影丸』を任された[5]。 この1963年はテレビアニメ『鉄腕アトム』がフジテレビで放映された年でもあった。TBSが新たにアニメ進出を企てたとき、同局のアニメ担当社員が藤岡の友人だったことから、アニメ製作の話が藤岡に舞い込む。TBSの幹部から「人形もアニメも動かないものを動かすのだから一緒」と説得され、1964年(昭和39年)8月19日に藤岡が代表となって「東京ムービー」を設立、手塚治虫原作の『ビッグX』が第1号作品となった[5]。 東京ムービー設立当初の企画・演出・管理部門は、人形劇出身者で占められたが、アニメの経験者がいなかった。大赤字を抱えて、同社は倒産寸前に追い込まれ、TBSの系列会社であったテレビ制作会社国際放映の傘下で経営再建をすることとなった。藤岡は取締役制作部長に降格されるも[7]、親会社・国際放映の専務を兼任した[8]。1972年(昭和47年)から国際放映で何本かの実写映画の企画と製作に関わっている。 1975年(昭和50年)5月19日、海外合作とフル・アニメーションを目的に、テレコム・アニメーションフィルムを設立した[9]。 1991年(平成3年)にアニメ映画『NEMO/ニモ』の失敗の責任をとって、東京ムービー関連の全ての権利を手放す。その後は、キッズワールドで活動した[5]。 1996年(平成8年)3月30日、死去。68歳没。
来歴
関連項目
東京ムービー
テレコム・アニメーションフィルム
出典^ “ ⇒日本のアニメ100周年記念 「これからのアニメとこれまでのアニメ」”. アニメNEXT_100. 日本動画協会 (2020年3月12日). 2022年2月27日閲覧。
^ 大塚康生『リトル・ニモの野望』徳間書店、2004年、p182.
^ 東京国際アニメフェア初日覚書
^ 『まんだらけZENBU』第96号「別紙壮一インタビュー」 p.349-p.357、まんだらけ出版部
^ a b c d 斎藤貴男『夕やけを見ていた男 評伝梶原一騎』新潮社、1995年、p.128。
^ 「ひとみ座」主宰者・清水浩二によれば、『絵姿女房』(1956年4月)のパンフに掲載された劇団員連名に記述がある。『ひとみ座五十年の歩み』には「1958年(昭和33年)に参加した」旨の記述があるが誤りである、と記述している。#外部リンクにある清水のサイト「思い出のキャラ図鑑 第10回 「藤岡豊さん」」の記述を参照。
^ 『底辺絵巻の画工たち・劇画家』株式会社産報、1972年、p.197
^ ⇒NU SPECIAL INTERVIEW アニメ監督・出崎統氏 「ジャングル黒べえ」のメッセージは 今も生きている ⇒Neo Utopia公式サイト内
^ Wikipediaテレコム・アニメーションフィルムの項の記述を参照。
参考文献
大塚康生『作画汗まみれ 増補改訂版』、徳間書店、2001年 ISBN 4198613613
大塚康生『リトル・ニモの野望』、徳間書店、2004年 ISBN 4198618909
山崎敬之『テレビアニメ魂』、講談社、2005年 ISBN 4061497898
外部リンク
Yutaka Fujioka - IMDb(英語)
⇒思い出のキャラ図鑑 第10回 「藤岡豊さん」 - 演出家・清水浩二による回想