藤岡弘、
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このとき教えられた銃器の扱いは、後に『野獣死すべし』など映画での銃を取り扱うシーンに活かされた[27]

お笑いコンビ、とんねるずダウンタウンのバラエティ番組に出演するようになる。とんねるずは、『オールナイトフジ』で藤岡と初共演した際には狂喜乱舞、『とんねるずのみなさんのおかげです』では『仮面ライダー』のパロディ『仮面ノリダー』を演じる。また、『とんねるずの生でダラダラいかせて』では藤岡とカートレース対決を行っている。ダウンタウンは自身の番組『ダウンタウンのごっつええ感じ』の1コーナー「藤岡弘と遊ぼう!」で藤岡と共演。鬼ごっこ、ドッジボール、ハンカチ落としなどの遊びを展開している。

世界各地の紛争地帯や被災地などへの救援ボランティアとしても精力的に活動している[4]1993年北海道南西沖地震の際には「映画撮影の際にお世話になったので」と水などの援助物資を持てるだけ持って奥尻島に駆けつけ、当時の新聞もこの行動に「仮面ライダーは実在した」と大きく記事になった。また、2011年(平成23年)の東日本大震災の際にも、被災地へ1トンの米を寄付している[32]

雑誌、新聞で統一教会との関連性が1990年ごろより報道されるようになる。1992年(平成4年)9月、「東京スポーツ」などで「統一教会の信者」と報じられた。詳細は統一教会の名を隠した自己啓発セミナーの広告塔になっていただけであり、本人は全く関与がなかった[要出典]。

「梁山泊空手道連盟[33](代表:富樫宜弘[注釈 10])」を中心に結成された「眞日本武道空手道連盟[34]」・名誉会長に1998年就任。

コーヒー豆などのインターネット販売を行っている(「人物」の項を参照)。
エピソード
上京・デビュー当初

藤岡が上京したときは、養成所に入る予定はあったものの確かな当ては何もなく、泊まる場所もないため上智大学の横の土手で野宿するなどしていた[35]。藤岡は後年のインタビューでこのころを振り返り、たった一人きりで世間と向き合う自身にとっては世間そのものがショッカーのようであったと述べている[35]

養成所入所後も東京の流れの速さについていくのが精一杯であり、周囲が優秀であったため劣等感を感じていた[35]

松竹時代は、社風により青春映画のお坊ちゃん役が多く、自身とはかけ離れた役柄に悩んでいた[35]。出演作品には恵まれていたものの、次第に会社から与えられた仕事に甘んじていることや自身の役者としての方向性に疑問を感じるようになり、松竹を離れることを決意した[29]
『仮面ライダー』関連
負傷降板

当初、藤岡は本郷猛役だけでなく仮面ライダーのコスチュームも着用し、スーツアクターを兼任していた。危険度の高いアクションを除き、トランポリンを使用したアクションやオートバイで階段を登るバイクアクションなどもこなしている[注釈 11]。藤岡はスーツアクションを行うことは特別なことではなく当然だと思っていたが、その苦労までは想像できておらず[35]、後年のインタビューでは過酷な撮影ゆえに毎日現場へ向かう際に恐怖を感じていたことを明かしている[28]。第1話の撮影では、マスクをつけてのアクションは自身の息で前が見えなくなり、革製のスーツも動きづらかったが、準備に忙しいスタッフに申し出ることはできなかったことを述べている[36]

こうして撮影に取り組んでいたが、第9話・第10話[注釈 12]では下り坂をバイクで走り下りるシーン[注釈 13]でコーナーを曲がる際、たまたま工事中だったために砂利が多い場所で、オーバースピードからスリップし、曲がりきれないまま電柱を支えるワイヤーに突っ込む。その際にワイヤーに足が引っかかってワイヤーが跳ね上がり、そのまま反動でバイクとともに飛ばされるというアクシデントに見舞われる。藤岡は路上を2 - 30メートル転がって動けなくなったが、事故直後はまだ意識があり、背中の後ろの方から肩越しに見えていた自分の左脚を元の位置に戻し、靴が脱げていたために親指が動くかを確認し、かすかに動いたことに安心したところで意識を失ったという。容体は全身打撲のうえに左大腿部の骨が粉砕して筋肉に刺さる複雑骨折の状態で、全治3か月 - 6か月の重傷と診断され、長期休養を余儀なくされる[38]。この事故以降、仮面ライダーシリーズの主演俳優は演出上の一部例外を除いてスーツアクターを兼務することはなくなり、スーツアクターは全面的に大野剣友会やジャパン・アクション・クラブ(JAC、現・JAE)所属のスタントマンが担当するようになった。

救急搬送後、最初に手術を受けた東京都町田市内の病院は骨の接合手術に関して旧態依然とした技術しか持っておらず、藤岡は同じ病院で手術を受けた患者から「大腿部を複雑骨折して同様の手術を受けて1年ほど入院しているが、まだ完治していない」と聞かされ、車椅子生活すら覚悟した。この状況を知った知人の紹介で、東京都渋谷区千駄ヶ谷(当時)の前田外科病院に転院できることとなったが、当初、最初の病院は転院希望を断り、転院が決定した後も「(転院に関して)当院は一切保証しない」と、移動のためのストレッチャーなどを用意することなく黙視し、カルテレントゲン写真などの必要な情報提供も拒んだ。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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