藤岡弘、
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藤岡が上京したときは、養成所に入る予定はあったものの確かな当ては何もなく、泊まる場所もないため上智大学の横の土手で野宿するなどしていた[35]。藤岡は後年のインタビューでこのころを振り返り、たった一人きりで世間と向き合う自身にとっては世間そのものがショッカーのようであったと述べている[35]

養成所入所後も東京の流れの速さについていくのが精一杯であり、周囲が優秀であったため劣等感を感じていた[35]

松竹時代は、社風により青春映画のお坊ちゃん役が多く、自身とはかけ離れた役柄に悩んでいた[35]。出演作品には恵まれていたものの、次第に会社から与えられた仕事に甘んじていることや自身の役者としての方向性に疑問を感じるようになり、松竹を離れることを決意した[29]
『仮面ライダー』関連
負傷降板

当初、藤岡は本郷猛役だけでなく仮面ライダーのコスチュームも着用し、スーツアクターを兼任していた。危険度の高いアクションを除き、トランポリンを使用したアクションやオートバイで階段を登るバイクアクションなどもこなしている[注釈 11]。藤岡はスーツアクションを行うことは特別なことではなく当然だと思っていたが、その苦労までは想像できておらず[35]、後年のインタビューでは過酷な撮影ゆえに毎日現場へ向かう際に恐怖を感じていたことを明かしている[28]。第1話の撮影では、マスクをつけてのアクションは自身の息で前が見えなくなり、革製のスーツも動きづらかったが、準備に忙しいスタッフに申し出ることはできなかったことを述べている[36]

こうして撮影に取り組んでいたが、第9話・第10話[注釈 12]では下り坂をバイクで走り下りるシーン[注釈 13]でコーナーを曲がる際、たまたま工事中だったために砂利が多い場所で、オーバースピードからスリップし、曲がりきれないまま電柱を支えるワイヤーに突っ込む。その際にワイヤーに足が引っかかってワイヤーが跳ね上がり、そのまま反動でバイクとともに飛ばされるというアクシデントに見舞われる。藤岡は路上を2 - 30メートル転がって動けなくなったが、事故直後はまだ意識があり、背中の後ろの方から肩越しに見えていた自分の左脚を元の位置に戻し、靴が脱げていたために親指が動くかを確認し、かすかに動いたことに安心したところで意識を失ったという。容体は全身打撲のうえに左大腿部の骨が粉砕して筋肉に刺さる複雑骨折の状態で、全治3か月 - 6か月の重傷と診断され、長期休養を余儀なくされる[38]。この事故以降、仮面ライダーシリーズの主演俳優は演出上の一部例外を除いてスーツアクターを兼務することはなくなり、スーツアクターは全面的に大野剣友会やジャパン・アクション・クラブ(JAC、現・JAE)所属のスタントマンが担当するようになった。

救急搬送後、最初に手術を受けた東京都町田市内の病院は骨の接合手術に関して旧態依然とした技術しか持っておらず、藤岡は同じ病院で手術を受けた患者から「大腿部を複雑骨折して同様の手術を受けて1年ほど入院しているが、まだ完治していない」と聞かされ、車椅子生活すら覚悟した。この状況を知った知人の紹介で、東京都渋谷区千駄ヶ谷(当時)の前田外科病院に転院できることとなったが、当初、最初の病院は転院希望を断り、転院が決定した後も「(転院に関して)当院は一切保証しない」と、移動のためのストレッチャーなどを用意することなく黙視し、カルテレントゲン写真などの必要な情報提供も拒んだ。前田外科病院で行われた再手術では、ベトナム戦争傷痍軍人のために開発されたという方法が用いられた。それは筋肉に刺さっていた左脚の骨片を丹念に全て拾い集め、大腿骨骨髄に金属パイプを通してその周りに骨片を細いワイヤーで巻きつけるというものだった。それまで日本ではほとんど実例がなく、当時の最新技術だったこの手術は無事に成功した[38]が、『仮面ライダー』第1話の放送は病室のベッドで観ざるを得なかった[39]。ギプスが外れると、看護師の眼を盗んで筋肉がすっかり委縮して痩せ細った左脚の筋力強化のため、周囲が寝静まった時間帯にトレーニングを始めるが、その過酷さゆえに夜ごと床には汗だまりができたほか、時には発熱したため、日中になると疲れきって寝込むという「戦い」の日々を数か月送る。そんな当時のことを、藤岡は「看護婦さんとかに『この人は寝てばっかりだなぁ』って思われたのではないかなぁ」と振り返っている[38]。藤岡は後年のインタビューで、このときの体を動かせない苦痛やスタッフに多大な迷惑をかけたという想いで気持ちが先走っていたが、長い思索と心身ともに痛みに堪えなければならないという状況で精神的な成長を遂げることができたと述べている[29]

ドラマ自体は基本的に2話を同時進行で撮影するため、第9・10話の藤岡の出演シーンはほぼ撮り終わっていた、そこで第11話からのドラマ展開を変更し、本郷猛の登場シーンを減らしたうえで、やむを得ない箇所だけをライブフィルムの使用で補うこととした[37]

放送開始前の大事故で主演俳優の重傷という事態は、番組の存続に関わる一大事であり、通常であれば即刻番組降板も止むなしという状況に、緊急企画会議では毎日放送側から本郷猛を死亡させる案も出たが、東映プロデューサー・平山亨は「子供たちのオールマイティーの夢を壊すことはできない」としてこれに強硬に反対すると、代案として2号ライダー登場のアイデアを取りまとめ、主役交代を機にこれまでの反省点を一気に修正し、番組をリニューアルすることで継続を決めた。これが功を奏し、番組は第14話[注釈 14]から登板した藤岡の劇団NLT時代の同期である佐々木剛演じる一文字隼人 / 仮面ライダー2号の人気で社会現象となるほど、大ヒット作と化した[注釈 15]

『仮面ライダー』での本格復帰は第53話[注釈 16]からだが、第40話・第41話[注釈 17]にまだ足のケガが完治しない時期にゲスト出演[40]という形で現場復帰を果たし、1971年末の桜島霧島でのロケに参加する。


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