藤山一郎
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注釈^ 藤山は、はじめは近所の東華幼稚園に入園したが、腕白な振る舞いが原因で間もなく大塚東京女子師範学校付属幼稚園に転入させられた。
^ この時期に藤山が師事した音楽家にはこの他、梁田貞声楽)・大塚淳ヴァイオリン)がいる。また作曲家、本居長世の自宅に出入りし、後に本居が設立した如月社にも参加、同社にて本居の作品を独唱した。
^ 慶應とつながりがあった弘田との縁がきっかけとなって、後に東京音楽大学在学中の1930年、『慶應幼稚舎の歌』『普通部の歌』の吹き込みを行っている。
^ 最下位は岡本太郎で、のちに岡本は藤山に対し、「増永はよく学校に出ていたくせにビリから二番、オレは殆ど出ないでビリ、実際はお前がビリだ」と言い放ったといわれている。
^ 作曲家、山田耕筰の自宅に出入りし、山田の自筆譜の清書もしている。
^ かつて佐藤千夜子が学則58条違反により退学処分を受けたことがあった。
^ 藤山一郎以外にも、花房俊夫・井上静雄・南一郎・藤村二郎・田垣宣文・藤井龍男などの変名を用いた。
^ 日光華厳滝に身を投じた一高生にちなんで藤村操という名前も考えたが、文学青年の名前は似合わないと却下された。
^ 少年役は本来はボーイソプラノによって歌われる。もう一つの主役である教師役は伊藤武雄が演じた[35]
^ 藤山はビクターへ復帰することも画策したが、結実しなかった。
^ 1940年4月14日付『読売新聞』には、グルリットのピアノで独唱者・木下保・増永丈夫・関種子・竹本光江らが歌っている写真が掲載されている。
^ 民謡『ブンガワンソロ』は帰国後藤山のレパートリーに加えられ、日本で流行歌となった。
^ 滞在中、藤山の待遇は中佐待遇に格上げされた。
^ 番組用に藤山は、NHKのラジオ局のスタジオで持ち歌と自らが作曲した『ラジオ体操の歌』の計24曲を録音した。
^ 他に非スポーツ選手が存命中に受賞した例としては女優森光子将棋棋士羽生善治囲碁棋士井山裕太が挙げられる。
^ 1966年のヒット曲『星影のワルツ』(作詞:白鳥園枝、作曲:遠藤実、歌:千昌夫)とは別の曲。
^ 『ブンガワン・ソロ』は戦地(現地)で歌われていた民謡に自ら訳詞をつけたもので帰国後には藤山のレパートリーに加わっていた。
^ NHKみんなのうた』で1968年12月から1969年1月にかけて放送された『おかあさんの顔』(作詞:やなせたかし、作曲:藤家虹二、歌:ボニージャックス)とは別の曲。
^ 第5回までは、紅白両軍どちらが大トリを取ったかは記録に残っていない。
^ この回は灰田勝彦がトリだったとする説と、藤山がトリだったとする説がある。
^ 丘を越えて・長崎の鐘(4回目)・青い山脈のメドレー。
^ 満78歳での歌手としての出場は、紅白史上最高齢記録だった。その後、2014年第65回美輪明宏がこの記録を更新。
^ 1990年第41回-1992年43回(それ以前も一部回を除き、蛍の光の指揮を担当した)。

出典^ a b 菊池清麿. “ ⇒演歌、歌謡曲と西洋音楽”. ゑれきてる「音楽の時代」特集2.日本の大衆音楽. 東芝. 2011年8月16日閲覧。
^ 斎藤1996、11頁。
^ 池井1997、12-14頁。
^ 私の履歴書、174頁。
^ 池井1997、13・15頁。
^ 池井1997、14-15頁。
^ 私の履歴書、176-177頁。
^ 藤山1986、24-26頁。
^ 池井1997、15頁。
^ 藤山1986、22頁。
^ a b “慶應義塾機関紙『三田評論「立ち読み 慶應義塾史跡めぐり 第57回』”. 慶應義塾大学出版会. 2021年8月7日閲覧。
^ 池井1997、22-24頁。
^ 藤山1986、30-32・38-39頁。
^ 私の履歴書、177-178・181頁。
^ 池井1997、28頁。
^ 池井1997、33-35頁。
^ 藤山1986、39-42頁。
^ 菊池1996、43-46頁。
^ 池井1997、36頁。
^ 池井1997、39-41頁。
^ 池井1997、44-45頁。
^ 『東京藝術大学百演奏会編』、115頁。
^ 私の履歴書、186頁。
^ 池井1997、49-51頁。
^ 藤山1986、48-54頁。
^ 藤山1986、55頁。
^ 塩沢1991、36頁。
^ 菊池1996、79頁-82頁。
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