藤子不二雄
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^ #独立後の合作の名義を参照。
^ アニメ声優交代時とCOVID-19感染拡大時の2年を除く
^ 後の高岡市立定塚小学校、2022年閉校。
^ 「ぼくはもともと小田富彌岩田専太郎氏などの時代劇挿絵が大好きで、よくチャンバラの絵を描いていた」「藤本君の影響で漫画の方へ転向」藤子?の寄稿より 『手塚治虫デビュー作品集』(毎日新聞社 1991年)P.6
^ 新制中学になるのは1947年4月?なので当時から中1という略称が使われていたかどうかは要検証。
^ 安孫子「藤本くんがとっていて?」 『藤子・F・不二雄の世界』(小学館 1992年)P.62
^ 安孫子「ズーッと愛読していた。ぼくの家でとっていたわけではないので、きっと学校でとっていたのだろう」「戦時中から連載漫画を愛読」「松下井知夫、花野原芳明、井元水明氏などの漫画を記憶」藤子?の寄稿より 『手塚治虫デビュー作品集』(毎日新聞社 1991年)P.6
^ 安孫子「新しい漫画」「新鮮でチャーミングなタッチ」「スマートな流れるような曲線」「それまで戦前の漫画のタッチで描いていたぼくたちの画風が、いっぺんに手塚タッチに転向してしまった」藤子?の寄稿より 『手塚治虫デビュー作品集』(毎日新聞社 1991年)P.7
^ 新制中学になるのは1947年4月?なので当時の名称は要検証。
^ 『まんが道』では2人宛の葉書になっているが実際は藤本宛で、冒頭に大きく「DEAR Fujimoto」とあり、渦巻状に記述された文字はどんどん小さくなり、最後に極小の文字で「アビコ君によろしく」と書かれている。『漫画少年』に入選した漫画のことなども記されている。5か月前に出したファンレターの返事。
^ 当時製作された『少太陽』は数冊現存し、1995年に『開運!なんでも鑑定団』にて1200万円と鑑定されている(出演・持込をしたのは藤本)。
^ 「月/日」は発売された月または月日。
^ 無題のため、1コマ目のセリフを記載。
^ はがき漫画で特等に入選するも作品の掲載はなし。
^ 「月/日」は発売された月または月日。
^ 「手塚不二夫」(おそらく誤植)名義の作品も含む。その場合は注釈を記す。
^ 「手塚不二夫」名義での掲載。
^ 手塚の連載漫画を目あてに中学生になってからも『毎日小学生新聞』を購読し『AチャンB子チャン探検記』を楽しんでいたという藤子(小学生時代は小学校で読めたとのこと)。1948年12月に『グッちゃんとパイコさん』の連載が終了してからも当然次の連載を待ち、身銭を切って購読を続ける。しかし手塚の新連載は一向に始まらない。『天使の玉ちゃん』はその3年後に投稿されている。
^ 読者による投稿が採用されたという意味ではこれまでの投稿漫画と同じだが、読者(アマチュア作家)に向けた「賞金」としてではなく、「連載漫画の掲載代」として原稿料が支払われている。
^まんが道』に掲載された『天使の玉ちゃん』はオリジナルのものではなく安孫子がリメイクしたもので、キャラクターの造形が大きく異なる。
^ このことで、2人が漫画を描いていることが先生や他の同級生にも一気に知れ渡った。[要出典]。
^ 知らない間にデビューしており、当の作者が後から印刷物を見るという状況から考えて、この時点では藤子は『毎日小学生新聞』の定期購読をやめていたと考えられる。
^ この時2人が見せた漫画を手塚は終生大切に保管していた。
^ 継続的な初出勤日は、3月末の月曜日であれば31日。
^ 当初は図案部に配属されるも、ほどなく学芸部に異動。「絵が漫画っぽくて、信用が得られない」との広告主からのクレームが理由。学芸部でも当初は絵を描く仕事ばかりに追われた(1面を飾った吉田総理の似顔など)。図案部は大金が絡む広告の作成をメインとした部署だが、学芸部での安孫子は新聞に掲載される雑多なものを含め様々なカットを手掛けたと考えられる。 『月刊北國アクタス』2018年10月号 藤子不二雄?ロングインタビュー P.9?10
^ 別の日のラジオ欄を誤って掲載してしまうという大事件も起こした。
^ この続きの原稿も送付済みだったが、掲載されることはなかった。藤本と安孫子はこの日の時点では最後の掲載とは認識していない。
^ 藤本によると「3日というのはオーバーですが、まあ、それに近い感じ」(『二人で少年漫画ばかり描いてきた 戦後児童漫画私史』 文春文庫版P.73)。『Fの森の歩き方』P.265には「4日で退社」と記載されている。4日でも3日でもたいして変わらないので、事実が4日だった場合に3日を「オーバー」と表現するのかどうかという疑問が生じる。
^ 火の鳥人物文庫『藤子不二雄?』(2002)では、安孫子が5日間勤めた週末の帰り道に藤本に会い「昨日辞表を出した」と告げられる。この火の鳥人物文庫では安孫子の就職日を「4月」としており、週末は4月5日(土)なので、4月1日に安孫子が初出勤し、藤本は4月4日に退職した考えれば辻褄があう(ただし『月刊北國アクタス』2018年10月号には安孫子は3月から勤務と記載されている)。ドラマチックにみせるための脚色や重大な事実誤認もある書籍なので、信憑性は不明。
^ 理由は「漫画に専念する時間がほしかった」「会社づとめが性に合わない(内向的で安孫子よりもさらに人見知り)」から「漫画とまるで無関係な仕事なのが耐えられなかった(安孫子は得意の漫画を職務に活用)」「手を怪我するかもという不安から」「実際に手に怪我を負った」まで様々なものがあがっている。半自伝フィクション作品『まんが道』では一切取り上げられていない。小学館の『学習漫画人物館 藤子・F・不二雄』(1997)では本編で事故のシーンが詳細に描かれ、巻末の年表にも「事故により退社」と記載されているが、事故の詳細の出典はない。1997年以降のテレビ番組等では「学習漫画人物館」の内容をそのまま放送しているだけとも考えられる。火の鳥人物文庫『藤子不二雄?』(2002)では怪我のことは一切語られず、退職理由としてサラリーマンの適性がないことが長く語られる(『まんが道』の才野と同じ理由なので『まんが道』を参考にしていると推測できる)。公式の書籍『Fの森の歩き方』(2010)でも怪我については非掲載。
^ 「もし機械に腕を巻き込まれ大怪我をして漫画が描けなくなったらどうしよう。
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