1970年代には、少年漫画週刊誌に『まんが道』『魔太郎がくる!!』『ブラック商会変奇郎』『プロゴルファー猿』等を発表し人気を博した。
文才にも優れ、『二人で少年漫画ばかり描いてきた』などの文章の書籍も多数手がけている[注 6]。
なお、安孫子と藤本の合作は1976年の『オバケのQ太郎』の読切がほぼ最後であり、これより後は藤子不二雄名義ではあっても、ほぼすべてどちらかの単独作品である(誤解されやすいが、1966年連載開始の『パーマン(旧)』や1971年連載開始の『(新)オバケのQ太郎』は合作。詳細は藤子不二雄#藤子不二雄の合作を参照)。 1980年代には藤子不二雄ブームが起き、安孫子は『怪物くん(新)』『(新)忍者ハットリくん』『ウルトラB』等の児童漫画も多数執筆。 1986年には倒れた妻を介護する身となる。相棒の藤本が癌手術を行ったこともあり、1987年に独立を発表。1988年から藤子不二雄?として活動するようになる(コンビ時代の来歴の詳細は「藤子不二雄#来歴」を参照)。 独立後は映画『少年時代』をプロデュースするなど多彩な才能を見せ、数々の賞を受賞。1989年にアニメ化された『笑ゥせぇるすまん』が大人気となり、新作の長期連載等、せぇるすまんシリーズ(1968-2004)の漫画執筆を行った。その他、『ビリ犬(新)』(1988-1989)、『パラソルヘンべえ』(1989-1991)、『プリンスデモキン』(1991-1999)など、20世紀は児童漫画の執筆も一貫して行った。 1998年、黒澤明の映画を漫画化した単行本『用心棒』を刊行。藤子?ならではの斬新な手法を駆使した迫力満点の画面構成は芸術作品として一つの到達点を迎えた。 2000年代以降もまんが道シリーズ『愛…しりそめし頃に…』等の連載を継続して執筆。 『怪物くん』は嵐の大野智主演で連続ドラマ化、3D実写映画化された。 『忍者ハットリくん』は2004年にSMAPの香取慎吾主演で映画化された他、インドでアニメが放送され人気が爆発。2012年からは日本とインドで共同で新作アニメの制作を開始。2023年現在もYouTubeやテレビ放送で新作が公開される国際的人気作となっている。 2014年、生誕80周年を記念して、藤子不二雄?デジタルセレクションが刊行された(2015までに215冊。事実上の全集)。 2015年、『ジャンプスクエア』の連載『PARマンの情熱的な日々』を12月号をもって休載することを発表[10]。その後、新連載を打診するも旧知の編集者が定年退職しており、現役の編集者に知り合いがいなかった為、話が進まなかった[11]。追悼放映された『クローズアップ現代』によるとトキワ荘をテーマにした作品で、番組内では下書き原稿も公開された。 2019年には、富山市の高志の国文学館にて、特別展「藤子不二雄?展 ??の変コレクション?」が開催された[12]。 2022年4月6日没[2](88歳。翌7日8時40分頃、川崎市多摩区内の自宅の敷地で倒れているところを発見され、その場で神奈川県警による調査により死亡が確認された[13][14]。その後、命日は4月6日であることが発表された)。同年10月31日、東京都内で「お別れの会」が開かれた[15]。 受賞、受章など。独立前(1987年以前)は藤子不二雄#受賞歴を参照。
藤子不二雄ブームから独立へ
さらば友よ…1人の藤子不二雄時代
受賞歴
1990年 - 第10回 藤本賞・特別賞(藤子不二雄?(「少年時代」製作))
1990年 - 第11回山路ふみ子文化財団特別賞(プロデューサー・藤子不二雄?[注 1])
2005年 - 第34回日本漫画家協会賞 文部科学大臣賞[注 7](全作品)
2008年 - 氷見市名誉市民(出生地の氷見市において、自作漫画キャラクターの提供など市の活性化への貢献により)[16]。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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