魚名の死後間もなく、桓武天皇は左大臣の官職を贈り、左大臣免官に関する詔勅や官符等を焼却させ、その名誉を回復させた[12]。
大阪府豊中市に鎮座する服部天神宮の前身の一つが魚名の墓と言われ、境内には今も「川辺左大臣藤原魚名公の墓」が残る。同社には、魚名の死から約100年後に同じく大宰府へ左遷された菅原道真の伝説が伝わっている。
人物服部天神宮の藤原魚名の墓
万葉寺造営や額田寺の法会を行う等、仏教への信仰心が篤く、『延暦僧録』居士伝の一つに守真居士としてその名が挙げられている。 注記のないものは『続日本紀』による。 注記のないものは『尊卑分脈』による。 平安時代に入ると魚名の後裔は地方官等を歴任する中級貴族となり、長らく公卿に列せられる者はなかったが、末茂の末裔である藤原顕季やその息子達が院政期に院近臣となって急速に勢力を伸ばし、再び公卿の地位を占めるようになった。顕季の子孫は善勝寺流とも称され、嫡流の四条家を始めとした堂上家を輩出した。 鷲取の子孫からは鎌倉時代の有力御家人で秋田城介を世襲した安達氏や戦国大名として有名な伊達氏等、有力武家を輩出した。 藤原秀郷(平将門の乱を鎮圧した)は藤成の子孫(魚名 - 藤成 - 豊沢 - 村雄 - 秀郷)を称し、子孫からは奥州藤原氏や結城氏・大友氏・近藤氏等、有力武家を輩出した。
官歴
時期不詳:正六位上
天平20年(748年) 2月19日:従五位下、侍従[13]
天平勝宝9歳(757年) 5月20日:従五位上
天平宝字2年(758年) 4月14日:備中守
天平宝字3年(759年) 6月16日:正五位上(越階)。11月5日:上総守
天平宝字5年(761年) 正月2日:従四位下
天平宝字8年(764年) 9月25日:宮内卿
天平神護元年(765年) 正月7日:正四位下(越階)。
天平神護2年(766年) 11月5日:従三位
神護景雲2年(768年) 2月18日:参議
時期不詳:兼大蔵卿[13]
神護景雲3年(769年) 8月19日:兼左京大夫
神護景雲4年(770年) 8月28日:兼但馬守。10月1日:正三位
宝亀2年(771年) 3月13日:大納言(不経中納言)
宝亀4年(773年) 日付不詳:兼近衛大将[13]
宝亀5年(774年) 9月4日:兼中務卿
宝亀8年(777年) 正月4日:従二位。10月13日:兼大宰帥
宝亀9年(778年) 3月3日:内臣。3月30日:忠臣
宝亀10年(779年) 正月1日:内大臣、近衛大将大宰帥如元
天応元年(781年) 正月12日:正二位。6月27日:左大臣兼大宰帥
天応2年(782年) 6月14日:免左大臣
延暦2年(783年) 7月25日:薨去(大宰帥正二位)。7月30日:贈左大臣
系譜
父:藤原房前
母:片野朝臣の娘
妻:藤原宇合の娘
男子:藤原鷹取(?-784)
男子:藤原鷲取
三男:藤原末茂
妻:津守氏
五男:藤原藤成(776-822)
生母不詳の子女
男子:藤原真鷲[14](あるいは真鷹、直鷹)[15]
女子:藤原小黒麻呂室
女子:藤原長道室
子孫
脚注[脚注の使い方]^ a b 木本[2014: 16]
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