この項目では、平安時代の公卿について記述しています。奈良時代の貴族の同名の人物については「藤原道長 (南家)」をご覧ください。
凡例藤原 道長
『紫式部日記絵巻』より
時代平安時代中期
生誕康保3年(966年)
死没万寿4年12月4日(1028年1月3日)
官位従一位、摂政、太政大臣、准三后
主君円融天皇→花山天皇→一条天皇→三条天皇→後一条天皇
氏族藤原北家九条系御堂流
父母父:藤原兼家、母:藤原時姫
兄弟道隆、超子、道綱、道綱母養女、道兼、詮子、道義、道長、綏子、兼俊
妻鷹司殿(源雅信娘)、高松殿(源高明娘)、源簾子(源扶義娘)、源重光娘、儼子(藤原為光娘)、藤原?子
子彰子、頼通、頼宗、妍子、顕信、能信、教通 、寛子、威子、尊子、長家、嬉子、長信
特記
事項従五位下への叙爵を元服とみなし、主君は元服時の天皇からとしている。
後一条、後朱雀、後冷泉天皇の外祖父
テンプレートを表示
藤原 道長(ふじわら の みちなが、康保3年(966年)- 万寿4年12月4日(1028年1月3日))は、平安時代中期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原兼家の五男。後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇の三帝の外祖父。 関白・藤原兼家の息子に生まれるが、道隆・道兼という有力な兄に隠れ、一条朝前半まではさほど目立たない存在だった。しかし、兼家の死後に摂関を継いだ兄たちが相次いで病没すると、道隆の嫡男・伊周との政争に勝って政権を掌握。さらに、長徳2年(995年)長徳の変で伊周を失脚させ、左大臣に昇った。 一条天皇には長女の彰子を入内させ皇后に立てる。次代の三条天皇には次女の妍子を中宮とするが、三条天皇とは深刻な対立が生じ、天皇の眼病を理由に退位に追い込んだ。長和5年(1016年)彰子の産んだ後一条天皇の即位により天皇の外祖父として摂政となる。早くも翌年には摂政を嫡子の頼通に譲り後継体制を固めるも、引き続き実権を握り続けた。寛仁2年(1018年)後一条天皇には三女の威子を入れて中宮となし、「一家立三后」(一家三后)と驚嘆された。立后の日に道長が詠んだ「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも 無しと思へば」は、藤原氏九条流による摂関政治の絶頂を示すものとされる。 寛仁3年(1019年)出家するが、当時の貴族の常として厚く仏教に帰依しており、晩年は壮大な法成寺の造営に精力を傾けた。晩年は糖尿病を病み、万寿4年(1027年)薨逝。没後、彰子所生の後朱雀天皇、六女の嬉子所生の後冷泉天皇が相次いで即位し、道長は三代の天皇の外祖父となっている。 村上朝末の康保3年(966年)摂関家の流れを汲む、藤原兼家の五男として生まれる。村上朝の実力者であった祖父の右大臣・藤原師輔(九条流の祖)は既に天徳4年(960年)に没しており、師輔の兄にあたる藤原実頼(小野宮流の祖)が左大臣として太政官の首班に立っていた。 道長の母は摂津守・藤原中正の娘である時姫。兼家は色好みで多数の妻妾を抱えていたが、時姫は道隆・道兼・超子・詮子・道長の三男二女を産んでおり、正室として扱われていたとみられる。幼少期、道長は中正の家で過ごしたと想定されるが、どのように育ったかは全くわからない。中正の父は才識に富む能吏として清和朝から光孝朝にかけて活躍し中納言に昇った藤原山蔭。山蔭の学問を疎かにしない家風が保たれていたと思われる中正の家で、道長の人並み以上の才学が培われたか。なお、長兄の道隆は13歳年上であったため中正の家で一緒に過ごした期間は短かったはずだが、5歳上の道兼や4歳上の詮子とはある程度の期間一緒に暮らしていたと想定される[1]。 円融朝初頭の天禄元年(970年)摂政太政大臣に昇っていた藤原実頼が没すると、摂関は円融天皇の外戚である九条流に移り、師輔長男の藤原伊尹が摂政を継ぐ。しかし、わずか2年後の天禄3年(972年)伊尹は急死。後継を次男・兼通と三男・兼家が争うが、結局兼通に関白が宣下された。兼通と兼家は不仲で、兼家は不遇の時期を過ごすことになる。貞元2年(977年)には兼通は死期が迫る中で、関白を天皇と外戚関係のない小野宮流の藤原頼忠に譲り、兼家の右近衛大将の兼官を解いて格下の治部卿に落とした。この際、兼家の子息である道隆・道兼も武官を解かれて地方官に左遷されているが、道長はまだ幼少であったため、父の不遇期における官途上の悪影響を最小限に逃れている。なお、翌天元元年(978年)頼忠によって兼家は右大臣に引き上げられ、ようやく不遇の時期を脱した。 天元3年(980年)道長は従五位下に初叙。天元6年(983年)侍従、永観2年(984年)2月に右兵衛権佐に任ぜられる。
概要
経歴
生い立ち
青年期
Size:151 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
担当:undef