藤原道長
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貞元2年(977年)には兼通は死期が迫る中で、関白を天皇と外戚関係のない小野宮流の藤原頼忠に譲り、兼家の右近衛大将の兼官を解いて格下の治部卿に落とした。この際、兼家の子息である道隆・道兼も武官を解かれて地方官に左遷されているが、道長はまだ幼少であったため、父の不遇期における官途上の悪影響を最小限に逃れている。なお、翌天元元年(978年)頼忠によって兼家は右大臣に引き上げられ、ようやく不遇の時期を脱した。
青年期

天元3年(980年)道長は従五位下に初叙。天元6年(983年侍従永観2年(984年)2月に右兵衛権佐に任ぜられる。

同年6月に円融天皇は花山天皇冷泉天皇の皇子)に譲位し、春宮には円融天皇の女御となっていた詮子所生の懐仁親王が立てられた。花山朝に入ると、天皇の外叔父である若い藤原義懐が急速に台頭。践祚に伴い蔵人頭に補せられると、早くも翌永観3年(985年)には従二位権中納言に進む。義懐は政治を領導するようになると、荘園整理貨幣流通の活性化など革新的な政策を進め、関白・藤原頼忠らとの確執を招いた。

寛和2年(986年)既に58歳になっていた藤原兼家は外孫・懐仁親王の早期の即位を望んで、前年に女御・藤原?子を喪って悲嘆に暮れていた花山天皇の退位を画策。兼家は三男の蔵人左少弁・道兼に花山天皇を唆させて内裏から連れ出し出家・退位させてしまった。この際に、道長は天皇の失踪を関白・頼忠に報告する役割を果たしている(寛和の変)。

花山天皇出家の翌日には直ちに幼い懐仁親王が践祚し(一条天皇)、兼家は外祖父として摂政に任じられる。執政の座に就いた兼家は息子らを急速に昇進させ、道長も同年中に三度の叙位を受けて従四位下左近衛少将に、翌永延元年(987年)9月には従三位に叙せられ公卿に列した。

同年暮れに、道長は2歳年上で当時の左大臣・源雅信の娘である倫子結婚する。道長の兄・道綱が同じく雅信の娘と結婚していたことから、道長の倫子への求婚は道綱からの影響を受けたものである可能性もある[2]。また、雅信は倫子を入内させる意向を持っていたため、当初は道長からの求婚を聞き入れようとしなかったが、倫子の母・藤原穆子が道長の将来性を買ってこの結婚の話を進めたとの話も伝わっている[3]。一方で、雅信が倫子を入内させる気があれば年齢的に円融天皇に入内させても不自然ではないのにこの時までどの天皇にも入内させていないことや道綱の妻になった女性が倫子の妹とみられることから、そもそも入内の話が『栄花物語』の創作と考え[注釈 1]、兼家と雅信の合意による政略結婚の可能性もあるとする研究者もいる[4]。道長は祖父の師輔や父の兼家の若い頃のように受領の娘を選ばず、いつかめぐってくるであろう摂関の地位に就く機会に備え、自らの運命を大きく切り開くために源氏の名門に賭け、父の摂政就任を経て自らの公卿昇進を求婚の好機として選んだ[5]。翌永延2年(988年)には早くも長女の彰子が雅信の土御門殿で誕生している。

また、同年には安和の変で失脚した故左大臣・源高明の娘である明子も妻とした。明子は高明の没後、まず盛明親王の養女となるが、のち藤原詮子に引き取られ厚く庇護されていた。明子に対して、道隆・道兼が詮子を訪ねては言い寄ろうとしたが、詮子はこれを聞き入れず、道長に機会を与えたとの逸話がある[6]。この逸話の真実性は定かではないが、道長が詮子を介して明子に近づいたことが想定される。道長が明子を選んだ理由については、身分的高貴さは当然ながら、舅の高明は既に10年前に没していたことから政治的要素は少ないと思われること、姉によって愛護されている身近な存在であったことを踏まえると、多少の恋愛的要素が含まれていた可能性がある。そのころ読まれた物語に登場する薄幸に耐えて生きる美姫というのが、道長の明子に対するイメージであったかもしれない[7]。なお、研究者の中には嫡妻である倫子を重んじるために、『栄花物語』では道長と倫子が先に結婚したように記しているが、実際には明子との結婚の方が倫子よりも先、すなわち永延元年の春のことであったとする説を唱える研究者もいる[8]

道長も当時の貴族の常として多くの妻を持っていたが、倫子が二男四女、明子は四男二女と多数の子女を儲けるなど、この二人が道長の家庭の中枢を担っていく[9]。ただ、道長は倫子とはほとんど毎日行動を共にしていたらしい一方で、明子とは時々しか会っていなかったと見られ、倫子は嫡妻で、明子は妾妻であった[10]

永延2年(988年)正月に、道長は参議を経ずに権中納言に昇進した。以後、摂関家の当主・嫡子は、近衛中将・少将から非参議の三位となり、参議を経ずに中納言となるのが常例となった[11]
伊周との争い

正暦元年(990年)正月に正三位に叙せられる。5月に兼家は病気のため出家し(7月に薨去)、長男の道隆が摂関を継いだ。道隆は摂関の地位に就くと子女を宮廷・政界に急速に進出させ始める。同年10月に父・兼家の喪中にもかかわらず、長女の定子を前代未聞の四后並立[注釈 2]として世の反感を買いながら一条天皇の中宮に立后。この強引な行為に対して、藤原実資は「驚奇少なからず」[12]「皇后四人の例、往古聞かざる事也」[13]と記した。ここで、道長は中宮大夫に任ぜられるが、喪中の件と強引な道隆のやり方を良しとせずに敢えて中宮定子のもとに参らず、世間から気丈なことであると賞賛されている[3]。道長は、正暦2年(991年権大納言、正暦3年(992年従二位に叙任される。しかし、道隆は嫡男の伊周を後継者に擬して強引に昇進させていき、正暦5年(994年)には道長を凌いで弱冠21歳で内大臣に引き上げた。藤原実資はこれに対しても「父の権力への執着の現れ」と断じている[14]

同年冬頃から道隆は飲水病(糖尿病)により体調を崩し、長徳元年(995年)に入っても体調は回復しなかった。2月に辞表を提出し、3月には道隆が病気の間に限って伊周に政府文書の内覧を行わせる旨の宣旨が出される。4月に入って道隆は重態となり没した。道隆の死因は糖尿病の悪化、また『大鏡』では酒の飲み過ぎであるとしている[15]。当時、平安京では赤斑瘡(はしか[注釈 3]が猛威を振るっており、死因はこの罹患による可能性もある[17]。半月ほどの摂関不在を経て弟の右大臣・藤原道兼が関白を継ぐも、就任僅か数日で疫病に倒れ「七日関白」と呼ばれた。この間に道長は左近衛大将を兼ねているが、道兼の意向によるものと想定される[18]。なお、4月から5月にかけて、中納言以上の公卿だけで道隆、道兼、左大臣・源重信ら8人が死亡し、四位から五位の者は60人余が病没したという[16]

道兼の死から3日後の5月11日に権大納言であった道長に内覧の宣旨が下る。道兼の後継選定に当たっては、伊周は自らが摂関たらんと欲し、一条天皇の意中も伊周にあった。これは道隆の没後に後ろ盾を失った定子への配慮でもあり、文才豊かな伊周とも親しかったためと想定される[19]。一方、道長は伊周が政治を行えば天下が乱れると考え、自らが後継になろうとした。一条天皇の母后・東三条院(詮子)はかねてより兄弟たちの中で特に道長に目をかけていたため、道隆や伊周との関係が悪かった上に、道兼の死後は弟の道長が関白になるのが道理であると道長を強く推す。さらには、なかなか聞き入れない一条天皇の寝所にまで押しかけて膝詰めで涙を流して訴えかけると、遂に天皇も院の執拗な説得に折れて道長の内覧宣旨を下した。また、道長は東三条院の局で天皇と女院の協議の結果を待っていたが、非常に長い時間、女院が天皇の寝所から出てこないため、だめかもしれないと緊張していた。ようやく出てきた女院は、顔は泣きはらしていたが、口元は満足げに微笑んで「あはや宣旨下りぬ(ああやっと、内覧宣旨が下りました)」と言ったという逸話がある[6]

6月に入ると道長は伊周を超えて右大臣に昇るが、摂関には就かず内覧に留まった。以下の通り、伊周との抗争が続いており、道長は摂関になり得なかったと想定される[20]

7月24日:陣座で道長と伊周が諸公卿を前に激しく口論[21]

7月27日:道長と伊周の弟・隆家の従者が七条大路で集団乱闘[22]

8月2日:隆家の従者が道長の随身を殺害。道長は下手人を出さない限り、隆家の参内停止を要求。


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