藤原良相
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貞観8年(866年)3月に良相の西三条第(百花亭)に清和天皇が行幸して、40人もの文人を参加させた詩会を伴う大規模な花見の宴が開催される[21]。しかし、この頃には良房の健康が回復していたらしく、閏3月には良房の染殿第にて天皇の行幸を伴う観桜宴が競うように開催された[22]。こうして良房と良相の権力闘争が顕現化した中で、応天門の焼失事件が発生する[23]。当初は自然発火的な災難とされて大般若経転読や諸神への奉幣などが行われるが[24]、まもなく良相は伴善男の謀略に通じて左大臣・源信に対して応天門放火の嫌疑で遣使を行いその邸宅を囲ませる。しかし、これを知った良房が清和天皇に奏聞した結果、勅によって慰諭の遣使が行われて源信の嫌疑は晴れた[25]。その後8月になって、大宅鷹取が応天門放火犯として伴善男を告発したため、伴善男に対する訊問が行われる[26]。訊問の最中に、諸山陵に対して遣使が行われ、御陵の樹木を多く伐採したことが応天門焼失の原因である旨の告文が奉じられているが[27]、これは良相が伴善男の無実を証明するために行ったとする見方がある[28]。しかしここで良房が摂政に就任、伴善男の扱いは良房の裁量に委ねられることとなり[28]、9月末には伴善男は断罪されて流罪に処され[29]、貞観6年(864年)以来の良相-伴善男ラインによる太政官領導体制は完全に崩壊した(応天門の変)。

応天門の変後も良相は失脚はせず、10月から12月にかけて4件の格の上卿を務めている[30]。しかし、貞観元年(859年)に良相が禁止していた鷹の飼育について、12月に一部で勅許が出るなど[31]、かつてのような政治的影響力は既に失われていた[32]。同月には二度に亘って致仕上表を行うが許されず[33]、三度目の上表でようやく左近衛大将の辞任を許され、代わりに子息の常行が右近衛大将に、直方が次侍従に任ぜられている。なお、同月には基経が末席参議から一挙に中納言に昇進[34]、高子が女御として入内しており[35]、良房の後継が基経であることが明確になった。

翌貞観9年(867年)10月初めに直廬で倒れ、同月10日に薨去享年55。最終官位は右大臣正二位。即日正一位を贈られた。遺言に従って薄葬とし、一重のだけでを覆わせたという[3]
人物

幼少時から度量が広く傑出していた。仏教への信仰心が篤く、臨終に際して極楽往生を信じて疑わなかった様子は姚察にもなぞらえられたという。また、長い間肉食をせず粗食で通していた事から非常に痩せており、それは終生続いたという。[3]
邸宅跡から出土した仮名墨書土器

平成24年(2012年)に平安京内に存在した良相の邸宅跡(現在のJR二条駅西側京都市中京区)から、平仮名が墨書された土器発掘された。

一流の文化人が集うサロンであった事が想定される良相邸跡でのこの発見は、9世紀後半の京洛での貴族階級における平仮名ないしは国風文化の広まりを示す貴重な発見である[36]

即興的に詠んだ歌を平仮名でササッと私的に記すのに用いたと考えられ、平仮名は女性が書くものだったとの従来の説を覆す可能性があり、貴重な発見である[37]
逸話

ある時仁明天皇が
薬石を煎じて不純物を取り除いたものを試しに近侍の者に見せて、まず嘗めてみてその精粗を教えよと命じた。しかし、気後れして誰も口に入れようとしなかったところ、良相はを取って全部飲み込んでしまった。天皇は薬剤の事であっても君臣の義を忘れなかったとして、良相を褒めたという。

良相は仏教の典籍を学び、真言に通熟していた。良相が30歳代の頃に室(大江氏)が没したが、欲望を振り払い念仏に没頭し、後室を娶る事はなかったという。

一族をまとめる事にも腐心し、勧学院の南側に延命院を建てて一族の学生の内で病苦があり家業がない者を養い、また、六条の邸宅を崇親院と名付けて一族の子女で自ら生計を立てられない者を養った。なお、封戸を割いて荘田に入れこれらの運営のための費用に充てたという。また、崇親院の中に小堂を建てて仏像を安置し、院に住まわせている者に毎日像を洗わせあるいは観音の名を唱えさせる等して善根を積ませた。

文学の士を愛好し、大学寮で学ぶ学生の中で貧しい者がいれば綿を与え、冬に寒さが厳しい折には多くの服を縫って四学堂に宿直する者に遍く与えた。また、学生の内で漢詩が得意な者を召して詩を作らせ、褒美を与える事も数多くあったという。[3]

おとぎ話「一寸法師」で、主人公の一寸法師は都に上り、京で一番大きな屋敷に住み込みで奉公するが、その屋敷の主は「三条大臣殿」で、藤原良相のことであるという。

貞観元年(859年藤原氏の学問所である勧学院と療養施設である延命院の守護社として武信稲荷神社を創祀した[38]

説話

以前、良相は学生であった小野篁が罪を犯した際これを弁護した事があった。後に良相は病を得て一旦死去し地獄で閻魔大王の目前に引き据えられるが、閻魔王宮の臣として裁判を手伝っていた篁の執り成しによって赦され冥界から帰還したという[39]


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