藤原紀香
[Wikipedia|▼Menu]
建築設計事務所経営の父、専業主婦の母と3歳下の弟がいる。紀香という名前は、和歌山県出身の両親が結婚前によく紀ノ川周辺でデートをしており、思い出深い「紀ノ川」の「香り」にちなんで命名された[3]。父は満州生まれであり、引揚げの際に家族を失っている[9]

子供の頃は自宅近くの野山を駆け回るようなやんちゃな性格で、いつも弟と一緒に男子がするような遊び[注釈 1]をしていたため、よく男子に間違えられていた[3][10][注釈 2]。また、小学生時代は、当時男子しか入れなかった少年野球チームに「なんで女子は入れないの?」とコーチに直談判して特別に入り、ポジションは3番ファーストだった[3][11]

この頃父親が家族を連れて車で旅をするのが好きだったため、金沢岡山など様々な観光地に行っていた。その道中渋滞に巻き込まれると、いつも車の中で一人用のカラオケセットで中森明菜ピンク・レディーの曲を歌って家族を楽しませていた[3]。歌が好きで小学校のころはピンク・レディーになるのが夢だったという。
学生時代

海洋動物が大好きで、小学校の頃の夢はイルカショーのお姉さん[12]。一緒に寝泊りして飼育することに憧れていたという[13]。思春期の頃は和歌山県白浜のアドベンチャーワールドに数え切れないほど通い、特に当時“オルカ”と名付けられたシャチのショーを見るのが大好きだった[3]

中学・高校時代は阪急電鉄で通学。中学・高校時代はバスケットボール部に所属するスポ根少女だったが、高校では落語研究会にも所属[14]

高校進学後から歴史が好きになり、歴史考古学者の助手や世界史の教師になるのが夢だった。しかし17歳の時に先述のセンバツ高校野球の「セブンティーンリポーター」に応募し、「スポーツと私」という作文を書いて合格。甲子園球場から試合の模様を伝えたり、選手や彼らを支える人などをインタビューし、これが自身にとって初めてのテレビ出演となった。人に物事を伝える面白さを感じたことから、将来はアナウンサーやリポーターになることが夢だった[3]
芸能界へ

大学進学後、突然「ミス日本コンテスト」の書類選考を通過したとの知らせが届く。若い頃母が同コンテストに憧れながら断念した過去があり[3][注釈 3][注釈 4]、娘にその望みを託し「お見合いの箔つけにでもなれば」と内緒で応募していた。その後最終選考まで残り、「ミス日本」優勝。

芸能界入りを望んだが両親から猛反対に遭い、後日親族たちも交えて話し合いの場が設けられて上京を諦めるよう説得を受けた[16]。その結果「1単位も落とさずに大学を卒業すること」と「芸能界の仕事は実家から通うこと」を条件に許可され、大学卒業後にモデルデビューした[3][4]。事務所に所属後いくつかの企業のイメージガールに合格するが、1993年頃に水着姿の仕事を受ける際、両親から再び猛反対された。所属事務所が必死に両親を説得したことで何とか許可をもらい、東レのキャンペーンガールなどの仕事を担当[3]。モデル業に加えて、先述の『クイズ!紳助くん』など関西を中心にタレント活動をする。

自著である『藤原主義』によると、芸能界デビュー当初は神戸の実家から新幹線や飛行機で東京などの仕事場に通っていたが、1995年1月に発生した阪神・淡路大震災で知人を亡くして「やり残したことを後悔しながら死ぬのは嫌だ。これからは自分の夢に向かって生きていこう」と決意し、親元から離れて上京することを決意した。その時、家族会議が行われ、母から「あんたの帰るところはここやで。ダメやと思ったら自分で引き際を決めて帰ってきなさい」と言われ、3月[3]に上京。父親は最後まで首を縦に振らなかったが、上京の際、父がトラックに荷物を積んで無言で東京まで運んでくれたという。その後しばらくは、学芸大学駅近くの6畳一間で暮らすが、オーディションになかなか受からず倹約生活を送った[3]
第二の故郷・和歌山

本人は「和歌山は私の人生と切っても切れない、“第二の故郷”」と位置づけている[3]。両親が和歌山県出身であることから、「私には和歌山の血が流れている」[17]、「兵庫と和歌山のハーフ」と称することもある[8]

幼い頃から休みの日には祖父母の家がある和歌山に遊びに行っていたため、「紀ノ川あたりは“私の庭”です」と評している[18]。ちなみに高校時代に歴史好きになったのは、10代の頃に和歌山の熊野三社[注釈 5]熊野古道をよく散策したことがきっかけ[3]

和歌山県ゆかりの有名人として、2015年に行われた第70回「紀の国わかやま国体」の開会式に参加した[19][20]。また同年「紀の川フルーツ大使」に任命された時は、本人は「とても嬉しかった」としている[3]

2021年現在も時々和歌山の海に訪れては海釣りを楽しんだり[3]、東京の知人と白浜や熊野古道を訪れている[17]
女優業

女優を目指したのは1988年のドラマ「抱きしめたい!」で主演を務めた“W浅野”(浅野温子浅野ゆう子)に憧れたことがきっかけ[14]。1993年に関西でタレント活動を始め、同年の映画「ビッグタウンふたりの朝」で女優デビューした。

1995年に上京するが様々なオーディションに落ち続ける日々を過ごす。本人によると1997年にドラマ「ラブジェネレーション」への出演が転機となり、大きな仕事を依頼され始めたとのこと[3]。1999年のテレビドラマ「ナオミ」で初主演を務めた。

女優業では演技力を疑問視する声がマスコミからは上がっており、批判的な記事が掲載されることも少なくない[21][22][23][24]。また、ヒット作がないことから[25]、代表作は「バスロマン」[26][27][28]や「レオパレス」等[26][27][28][29]のCM、「披露宴[28]と書かれたこともある。

仁支川峰子は女優としての藤原を「ナイスバディなだけ」と評している[30]
国際活動や人道支援への協力

2002年には、
韓国の女優キム・ユンジンとともに日韓国民交流年の際、サッカー・ワールドカップ日韓共催大会の親善大使に起用され、両国の交流に貢献し、青瓦台にも訪問。

内乱後のアフガニスタンに赴き、2002年のテレビ番組で戦災についてレポートを行った。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:270 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef