「俵藤太物語」にみえる百足退治伝説は、おおよそ次のようなあらすじである。
ある時、近江国琵琶湖のそばの瀬田の唐橋に大蛇が出現して横たわり、人々は怖れて橋を渡らなくなったが、通りかかった俵藤太は動ぜず、大蛇を踏みつけて渡った。大蛇は人に姿を変え、実は自分は湖底に住む竜女だが、一族が三上山に棲みついた大百足に苦しめられている。百足を倒すため、ここで勇者を捜していたと語り、百足退治を懇願した。藤太が唐橋で待ちかまえていると、三上山から大百足が出現し、山上からこちらに向かってきた。強弓をつがえて射掛けたが、一の矢、二の矢は跳ね返されて通用しない。三本目の矢には降魔の力があるという唾をつけて射ると、矢は百足の眉間を射抜いた。礼として藤太は竜神から、米の尽きることのない俵や使っても尽きることのない巻絹などの宝物を贈られた。竜宮にも招かれ、赤銅の釣鐘も追贈され、これを三井寺(園城寺)に奉納した[18][19]。 俵藤太の百足退治の説話の初出は『太平記』十五巻といわれる[20][21]。しかし『俵藤太物語』の古絵巻のほうが早期に成立した可能性もあるという意見もある[22]。御伽草子系の絵巻や版本所収の「俵藤太物語」に伝わり、説話はさらに広まった[18]。 御伽草子では、助けをもとめた大蛇は、琵琶湖に通じる竜宮に棲む者で、女性の姿に化身して藤太の前に現れる。そして百足退治が成就したのちに藤太を竜宮に招待する[23][24]。ところが太平記では、大蛇は小男の姿でまみえて早々に藤太を竜宮に連れていき、そこで百足が出現すると藤太が退治するという展開になっている[25]。 百足は太平記では三上山でなく比良山を棲み処とする[26]。百足が襲ってきたとき、それは松明が二、三千本も連なって動いているかのようだと形容されているが[27]、三上山を七巻半する長さだったという記述が、『近江輿地志略』(1723年)にみえる[28][注 5]。 唾をつけた矢を放つとき、御伽草子では、八幡神に祈念しており、射止めた後も百足を「ずたずたに切り捨て」た、とある[29][注 6]。 俵藤太物語では竜女から無尽の絹・俵・鍋を賜ったのち、竜宮に連れていかれ、そこでさらに金札(こがねざね)[注 7]の鎧や太刀を授かる[32][25]。 時代が下ると、褒美の品目も十種に増える。そして太刀にも「遅来矢(ちくし)」という号し、赤堀家重代の宝刀となったという記述が『和漢三才図会』(1712年)や『東海道名所図会』(1797年)にみえる[26][33][34]。 鎧が「避来矢(ひらいし)」号し、下野国の佐野家に伝わったという異文が『氏郷記』(1713年以前[35])にみつかり[30][36]、異綴りだが「平石(ひらいし)」と「室丸(むろまる)」の2領が竜宮の贈物だったという、新井白石『本朝軍器考』(1709年)の記述となかば合致する[37][38]。 鍋には「小早鍋」、俵には「首結俵」という呼称があった(『氏郷記』)とする記載もみえる[30][39]。
諸本
大蛇の化身と竜宮
百足
財宝
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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