『吾妻鏡』文治5年11月8日条に泰衡幼息の行方を追っている記述があるが、その後の消息は不明。頼朝の子(のちの頼家)と同名(万寿)のため、改名するよう命が出されている。
(康高、万寿、万寿丸)の3人がいたとされる。時衡は「岩手県史」の記述によれば、父泰衡とともに討たれており、妻子の存在は確認できない。
秀安の子孫に関しては、「岩手県史」に載せられている「阿部藤原氏系譜」によれば、長男・秀宗は承久3年(1221年)に子がなく没した(享年22)。次男・良衡(1204年 - 没年不明)は安倍頼久の娘・佐和子を正室とし、信衡(1240年 - 没年不明、通称:藤原左司馬)を儲けた。信衡は安倍安助の娘を娶り、頼衡(1278年 - 没年不明、通称:藤原久馬)が生まれた。頼衡は安倍安兵衛の娘・市子を正室とし、孝衡(生没年不詳)を儲けた。この孝衡の代から安倍氏(阿部氏)を称するようになったという。孝衡の子には朝衡(1335年 - ?、通称・安倍五郎)があり、その子で孝衡の孫に秀政(1358年 - 没年不明、通称:安倍権六郎)がいたという。以下、孝晴、孝明と子孫は近世に続いたという。つまり、「阿部藤原氏」の系譜は以下のようになる。ただし、「岩手県史」以外にこの系譜に関する記録物は発見されていない。
泰衡-秀安-良衡-信衡-頼衡-孝衡-朝衡-秀政(延文年間)-孝晴-孝明
泰高(康高、万寿、万寿丸)の事績に関しては、庄内の郷土史を研究している土岐田正勝の「最上川河口史」によると、泰衡の子万寿は、酒田に逃れてきた当時10歳に満たなかったそうで、元服するまで徳尼公(泰衡の生母)の元にいた。そして、「その後泰高と名乗り、家来数人とともに津軽の外ケ濱に行き、『牧畑』を開拓した。やがて泰高は京都に出て、平泉藤原家再興を企図したがならず、紀州日高郡高家庄の熊野新宮領に定住した。その子孫が南北朝の天授3年(1377年)瀬戸内海の因島に移り住み、『巻幡(まきはた)』姓を名乗っている」という伝承が残っている。
だが、時衡・秀安・泰高はいずれも同時代史料では確認できないうえに、『愚管抄』や『吾妻鏡』といった後世の編纂物にも記述はなく、実在したかは疑わしい。 金色堂に納められた泰衡の首については、長年、忠衡のものと考えられ、首桶が入れられていた木箱にも「忠衡公」と記されていた。1950年(昭和25年)の開棺調査にて、死因については斬首されたということで間違いはないが、その首には16箇所もの切創や刺創が認められた。なかでも眉間と後頭にある直径約1.5cmの小孔が18cmの長さで頭蓋を貫通した傷跡があり、八寸(24cm)の釘を打ち付けたとする『吾妻鏡』の記述と一致することから、忠衡のものではなく泰衡のものであると判明した。他にも右側頭部に刀傷とみられる深い傷があり、頭や顔に多数の切創や刺創があった。これらの創から、首を刎ねるために太刀を7回振り下ろし、5回失敗して最後の2回で切断され、釘打ちの刑に処された上で晒し首にされたと推定されている。また、鼻と耳を削がれ、眉間から鼻筋を通り上唇まで切り裂かれた痕跡が確認された。保存状態は良く、顔は丸顔、豊頬で若々しく、父に似て鼻筋が通り頑丈な顔立ちであったという。 歯の状態は正常で、レントゲン検査から第三大臼歯(親知らず)の歯根が形成途中だった(智歯の遠心根の尖端が石灰化されていないが、通常、歯冠が完成するのは12歳 - 16歳、萌出は17 - 21歳、歯根は18歳 - 25歳で完成するという)ことが判明し、没年齢は推定20 - 30歳代、もしくは25歳と推定されている。また、23 - 30歳、切歯の摩耗度合いからみると30歳程度(前後)とも推定された。一方、頭蓋骨は20代半ばと30代半ば両方の特徴を有するという見解も出されている。この事実から、『吾妻鏡』吉川家本に記されている25歳没説と北条本に記されている35歳没説の両方が無視できないことになり、確証されていない。しかし、忠衡が23歳で没したという『吾妻鏡』の記録から、それ以上の年齢に達していたことは間違いないとされる。 首には縫合した跡が見られ、近親者と考えられる人物により手厚く葬られていた。このような誤伝がなされていたのは、義経の「判官贔屓」の影響とされる。つまり、「父の遺言を守り悲劇の英雄・義経を支持した弟・忠衡こそ、真の4代目たるべし」という心情である。また、逆賊(謀反人)の汚名を被った泰衡が鎌倉軍が管理していた金色堂に納められるわけがないという長年受け継がれてきた思い込みからの推測も理由として挙げられる。研究者の間では謀反人である泰衡が葬られることを近親者(樋爪俊衡・季衡兄弟との推測がある)が憚ったため、首の主を「忠衡」ということにしたという憶測もある。 また、泰衡の高祖父にあたる藤原経清の首であるとの伝承もあった。 開棺調査において、泰衡の首桶から100個あまりのハスの種子が発見された。種子はハスの権威であった大賀一郎に託されたが発芽は成功せず、その後1995年に大賀の弟子にあたる長島時子
泰衡の首
中尊寺ハスあつかし千年公園の中尊寺蓮池と阿津賀志山防塁(2021年8月撮影)
また、泰衡と縁の深い福島県伊達郡国見町では中尊寺蓮を譲り受け、西大枝地区にハス池を作った。2021年に周辺が公園として整備され、「あつかし千年公園」となった[7]。
泰衡は、「伊達次郎」と称していたということから、福島県北部の伊達地域との関わりも考えられる。伊達郡に隣接する信夫郡は奥州藤原氏と関連の深い佐藤氏が支配していた。佐藤氏は奥州藤原氏と同じ秀郷流藤原氏で、秀衡の頃の当主基治は秀衡のいとこの乙和子姫を妻にしていたとされ、また乙和子姫の娘は泰衡の弟・忠衡に嫁いだという。そのような奥州藤原氏と強固な関係を持った佐藤氏の支配地に隣接する伊達地域は、文治5年(1189年)の奥州合戦の折に泰衡が長大な防塁を築いた地域でもある。泰衡がこの地域を直接統治していたという証拠はないが、奥州藤原氏の影響力の強い地域だったことは窺える。 また、文治5年9月3日に泰衡が秋田で討たれ、首のない遺体はその死を憐れんだ贄柵周辺の住民たちによって錦の直垂に大切に包まれて埋葬され「錦様」と呼ばれるようになり、その場所に泰衡の墓石を御神体として祀る錦神社
その他
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 秀衡の次男であるにも関わらず、「太郎」という記録もある[1]。
^ 「小次郎」という記録もある[2]。日記の内容は武家の正装であり、平泉館で大事な儀式があったとき着なければならない赤根染を基調とした絹の狩が誰に支給されたかが記されている。泰衡の欄には「赤根染白」、「カサネタリ」、「カリキヌハカマ」と記されている。泰衡の異母兄・国衡の別名である信寿太郎殿の名も記されている。
^ 父秀衡は死去する直前、異母兄弟である国衡と泰衡の融和を図る目的で、自分の正室・藤原基成の娘(泰衡の実母)を娶らせ、各々異心無きよう、国衡・泰衡・義経の三人に起請文を書かせた。義経を主君として給仕し、三人一味の結束をもって、頼朝の攻撃に備えよ、と遺言したという。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}これは兄弟間なら対立・抗争がありうるが、親子は原則としてそれはありえないので、対立する国衡と泰衡を義理の父子関係にし、後家として強い立場を持つ事になる藤原基成の娘を娶らせる事で国衡の立場を強化し、兄弟間の衝突を回避したものと考えられる。それほど兄弟間の関係は険悪で秀衡が苦慮していたことが窺える。[要出典]
^ 『又玉海の記に、秀衡の娘を頼朝に娶はすべく互に約諾を成せりとあれど、秀衡系圖には娘なし、何等の誤りにや、否や、後の批判を待つ』という記録もあり[4]、訳せば、源頼朝と秀衡の娘を娶わせる約束が成されたとあるが系図に娘が記されていない、となる。
^ 泰衡幼息の行方を追っている記録もあるが[5]、その後の消息は不明。頼朝の子(のちの頼家)と同名のため、改名するよう命が出されている。
^ 国分原は宮城野原で、鞭楯は榴ヶ岡の辺りと考えられている[6]。
^ 『吾妻鏡』吉川家本では享年25、北条本では享年35とされているが、6歳で長男・時衡が生まれたとは考えられないので、享年35説のほうが有力と考えられる。但し、後述する1950年の開棺結果から享年25説は完全に否定できるものではなく、その場合は時衡について生年に誤りがあるか、そもそも架空の人物であった可能性(現に時衡について記述されている歴史書は少なく、非実在説がある)もある。[要出典]
出典^ 『玉葉』文治4年(1188年)1月9日条
^ 柳之御所遺跡で出土した人々給絹日記
^ a b c 佐々木紀一 2017.
^ 『平泉志』
^ 『吾妻鏡』文治5年11月8日条
^ 仙台市史編さん委員会 『仙台市史』通史編2(古代中世) 仙台市、2000年、201頁
^ 【福島県国見町】今が見頃!800年の眠りから醒めた蓮の花が咲き誇る「あつかし千年公園」 CREATORS. 2021/7/29
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