凡例藤原 永手
藤原永手(菊池容斎『前賢故実』)
時代奈良時代
生誕和銅7年(714年)
死没宝亀2年2月22日(771年3月12日)
別名長岡大臣
墓所大阪府羽曳野市駒ヶ谷杜本神社境内、
官位正一位、左大臣、贈太政大臣
主君聖武天皇→孝謙天皇→淳仁天皇→称徳天皇→光仁天皇
氏族藤原北家
父母父:藤原房前、母:牟漏女王(美努王の娘)
兄弟鳥養、永手、真楯、清河、魚名、宇比良古、御楯、楓麻呂、北殿、藤原豊成室
妻大野仲仟(大野東人の娘)、藤原鳥養の娘、
藤原良継の娘
子家依、雄依、曹司、藤原巨勢麻呂室、藤原内麻呂室
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藤原 永手(ふじわら の ながて)は、奈良時代の公卿。藤原北家、参議・藤原房前の次男。官位は正一位・左大臣、贈太政大臣。長岡大臣と称する。 和銅7年(714年)藤原北家の祖である藤原房前の次男として誕生。長男の鳥養が夭折したため、実質的に北家の長となる。 天平9年(737年)藤原四兄弟が相次いで没した直後の新体制構築のための叙位が行われた際に、従兄弟である藤原南家の乙麻呂・藤原式家の広嗣と共に、従六位上から三階の昇叙を受けて従五位下に叙爵される。しかし、聖武天皇が退位する直前の天平21年(749年)まで従五位下に留まる等、聖武朝では天皇の寵遇を得た同母弟・八束(後の真楯)とは対照的に昇進が停滞し、その後塵を拝した。聖武朝において不遇の時期を過ごした理由については、当時の政権を握っていた橘諸兄との関係、及び前述の弟・八束の存在の影響が考えられる[1]。 聖武朝末の天平21年(749年)陸奥国小田郡からの産金を祝って叙位が行われた際、産金の功労者として七階昇進した陸奥守・百済王敬福に次いで、永手も従五位下から四階昇進して従四位下に叙せられる。永手が特別な昇叙を受けた理由は明らかでないが、以下の説が出されている。 孝謙朝に入ると重用され、天平勝宝2年(750年)従四位上、天平勝宝6年(754年)従三位と急速に昇進し公卿に列す。さらに、天平勝宝8歳(756年)聖武上皇の崩御直後には非参議から一挙に権中納言に昇進し、天平勝宝9歳(757年)の藤原仲麻呂の紫微内相就任と同時に永手も中納言に任ぜられている。この間の天平勝宝7歳(755年)に発生した橘奈良麻呂の乱では小野東人を尋問して反乱計画の自白を引き出し[5]、反仲麻呂派の排斥に重要な役割を果たしている[6]。 天平勝宝9歳(757年)中納言に任ぜられ、藤原仲麻呂政権下では石川年足あるいは文室浄三についで太政官の第3位の席次にあった。一方で以下のような反仲麻呂的な行動や立場を見せるようになる。
経歴
聖武朝の不遇期
藤原仲麻呂による抜擢
既に従四位下に昇っていた弟・八束との平衡が考慮された[2]。
上記に加えて、聖武朝において政権を主導した橘諸兄らが弟・八束を用いてきた事に対して、新しい権力の枢軸を結成した光明皇太后と藤原仲麻呂が対抗のために兄・永手を登用した[3]。
大仏建立事業の推進を通じて聖武天皇の信頼を急速に深めていた藤原仲麻呂が、北家の勢力を抑えるために不遇の状況にあった永手に恩を売り味方に引き入れようとした[4]。
藤原仲麻呂からの離反
天平勝宝9歳(757年)道祖王の廃太子に伴って、孝謙天皇の皇嗣として藤原豊成と共に塩焼王を推挙(結局、仲麻呂の意中であった大炊王が皇太子となる)[7]。
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