藤原永手
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称徳朝においては、天皇の寵幸を背景にした道鏡による政治主導体制や、その体制強化を目的とした道鏡の出身地である河内国を中心とする地方豪族の抜擢といった方針に対抗して[16]、仲麻呂政権下では一定の距離があった永手・真楯兄弟は協力姿勢を取った[17]。一方で称徳天皇は天平神護2年(766年)正月に永手が右大臣に昇進して間もなく永手の邸宅に行幸して、永手を正二位に、さらに室の大野仲智をも従四位下に叙す等、太政官を主導する従兄弟で血縁的にも近い永手・真楯兄弟に対して協調姿勢で臨んでいる[17]

しかし、同年3月に真楯が没してしまい、太政官の首班として永手の主導力が問われる事になる。同年7月の参議への登用人事にあたっては、藤原南家の継縄と藤原式家の田麻呂(何れも従四位下)を擢用する。永手としては弟の魚名(正四位下)や楓麻呂(従四位下)を参議に加えたかったと想定されるが、藤原氏の氏長的存在として北家のみの勢力拡大ではなく、藤原氏全体の融和と発展を優先させる、平衡感覚を発揮している[18]。こうした中同年10月道鏡は太政大臣禅師から法王に就任し、社会・政治の両面で天皇と同等の権力を掌握するが、朝廷における圧倒的勢力である藤原氏の存在が道鏡に法王の位を求めさせたともいわれている[19]。道鏡の法王就任と同じくして、永手は左大臣に昇進するが、右大臣には称徳天皇の側近である吉備真備、中納言には道鏡の弟である弓削浄人が昇進。さらに大納言に準じる法臣に円興、法参議に基貞と道鏡の弟子が新たに太政官の構成員となる等、称徳天皇・道鏡一派で太政官が固められる中で、永手は対応に苦慮したと想定される[18]。しかし、称徳朝では皇太子が定まらない中で、和気王の謀反、淳仁廃帝の配流先からの逃亡、聖武天皇の遺子詐称、氷上志計志麻呂擁立を巡る呪詛宇佐八幡宮神託事件と、次々に皇位を巡って事件が発生したが、永手は何れも関係せずに難を逃れた[20]
光仁朝

神護景雲4年(770年)8月の称徳天皇崩御に伴う皇嗣問題では、天武系の井上内親王を妃とする、天智系の白壁王(後の光仁天皇)の擁立派に与した。「百川伝」をもとにした『日本紀略』などの記述では天武系の文室浄三・大市を推した吉備真備に対して、藤原式家の藤原宿奈麻呂百川兄弟と共にこれに対抗したとされている。しかし実際には、永手は白壁王擁立を主導したという事ではなく、あくまでも太政官首班としての対応を越えるものではなかったと見られる[21]。また、同年10月には光仁天皇擁立の功績により正一位に叙せられている。なお、近年、光仁天皇の皇太子については山部親王(のちの桓武天皇)を推した良継・百川らの反対を押し切って、井上内親王を通じて天武系の血を引く他戸親王を立てたという説が唱えられている[22]

宝亀2年(771年)2月22日に病により薨御。享年58。即日太政大臣の官職を贈られた。
人物

温厚で平衡感覚は持っていたが機略を縦横に駆使する資質には乏しかった(野村忠夫)[23]、穏便で決して独断専行型の人物ではなかった(瀧浪貞子)、等の評価がある。

生前に法華寺を倒したり、西大寺に建てられるはずだった八角七重の塔を四角五重塔に縮小させたことで、死後に地獄へ堕ちたとする説話がある(『日本霊異記』)[24]
官歴

注記のないものは『続日本紀』による。

時期不詳:従六位上

天平9年(737年) 9月28日:従五位下(越階)

天平21年(749年) 4月1日:従四位下(越階)

天平勝宝2年(750年) 正月16日:従四位上

天平勝宝4年(752年) 11月3日:大倭守

天平勝宝5年(753年) 2月5日:見式部卿[25]

天平勝宝6年(754年) 正月16日:従三位(越階)。7月20日:造山司(太皇太后藤原宮子崩御

天平勝宝8歳(756年) 5月3日:装束司聖武上皇崩御)。5月19日:権中納言[26][27]

天平勝宝9歳(757年) 5月20日:中納言[28]

天平宝字4年(760年) 6月7日:装束司(仁正(光明)皇太后崩御)

天平宝字7年(763年) 正月9日:武部卿

天平宝字8年(764年) 9月11日:正三位大納言[26]藤原仲麻呂の乱の功労)


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