藤原氏
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持統天皇末年頃に少壮官僚であった藤原不比等は、天武7、8年頃(678年頃)に蘇我連子の娘・蘇我娼子を嫡妻として迎えた。これによって不比等は、大臣家である蘇我氏の尊貴性を自己の子孫の中に取り入れることができ、藤原氏は氏として成立したばかりであるにもかかわらず、蘇我氏の地位を受け継ぐ氏であることを支配者層に示した[5]文武天皇元年(697年)8月には、持統天皇の譲位により即位した軽皇子(文武天皇)に不比等の娘の藤原宮子が夫人となっており、中央政界に台頭する。これと同時に藤原朝臣姓の名乗りが不比等とその子孫に限定されており、不比等は鎌足の後継者として認められて「藤原氏 = 不比等家」が成立する。藤原不比等は、下毛野古麻呂らとともに大宝律令と、それに続く養老律令を編纂して律令制度の確立に貢献した。さらに宮子が首皇子(後の聖武天皇)を産むと、皇子後宮にも娘の光明子(後の光明皇后)を入れて、天皇の姻戚としての地位を確立した。文武天皇以降、天皇のほとんどの后・妃が藤原氏の娘となる[6]

なお、不比等の出生について『興福寺縁起』には「公避くる所の事有り」とあり、これは不比等が天智天皇の御落胤であることを意味するとされる。『大鏡』、『公卿補任』、『尊卑分脈』にはその旨が明記される。
奈良時代

不比等の死後、外孫である首皇子(聖武天皇)が皇位に就くと、不比等の男子である武智麻呂房前宇合麻呂藤原四兄弟と天武天皇の孫である長屋王皇族を中心とする一派の対立が深まっていった。729年天平元年)、長屋王の変が起こり長屋王は自害する。これは、藤原四兄弟が自分達の異母妹で天皇の妃である藤原光明子を史上初の皇族以外出自の皇后に立てるため、反対する長屋王を讒言により陥れた陰謀事件であったとされる。なお、光明子の立后によって藤原氏の地位が向上することは、藤原氏を母方の実家とする聖武天皇にとっても好都合であることから、天皇の意向を受けた政変であったとも解される。
藤原四家略系図

  武智麻呂 → [藤原南家
  
[藤原氏] 藤原鎌足 不比等  房前 → [藤原北家
   
  宇合 → [藤原式家
 
  麻呂 → [藤原京家
 

藤原四兄弟は、それぞれ武智麻呂南家房前北家宇合式家麻呂京家の4家に分かれ、藤原四家の祖となった。731年(天平3年)、役人達の投票によって四兄弟全員が議政官に昇った。これは藤原氏が単に後宮政策のみならず、不比等以来律令編纂に関わってきた実績をもって官僚組織を掌握していったことの証でもあった。この中で、京家は最も振るわず早々に政治の舞台から姿を消すこととなる。

737年(天平9年)、天然痘の大流行で藤原四兄弟が相次いで病死する。それを受けて橘諸兄玄ム吉備真備らが藤原氏の突出を抑えようと努めたが、光明皇后の信任を得た南家・藤原仲麻呂(武智麻呂の子)の台頭により抑えられた。仲麻呂は757年天平宝字元年)には諸兄の子・橘奈良麻呂も排除した(橘奈良麻呂の乱)。仲麻呂は独裁的な権力を振るい、仲麻呂の一家には特に「恵美」を姓に加えられ、「藤原恵美朝臣」を称した。しかし光明皇太后の死後孝謙上皇の寵愛を得た道鏡が台頭し、764年(天平宝字8年)の藤原仲麻呂の乱で敗死した。

藤原仲麻呂の失脚で藤原氏は沈みがちであったが、式家の藤原良継百川や北家・藤原永手の尽力で再興する。以降は南・北・式の3家が競い合うが、やがて政争や一族の反乱で南家・式家は平安時代前期には衰退し、北家が最も栄えることとなった。
平安時代以降の歴史は藤原北家も参照。

平安時代中期以後は、藤原北家のみが栄えた。藤原良房清和天皇外戚となり、人臣で初めての摂政となった。そして、良房の養子・基経もまた、陽成天皇の外戚として摂政と関白を務めた。皇室と姻戚関係を結んで他氏の排斥と権力増強を行う路線は代々引き継がれ、842年承和9年)承和の変から969年安和2年)安和の変に至る一連の事件で藤原北家の他氏排斥が完了する。藤原道長頼通父子の代になると摂関政治の最盛期を極めた。

だが平安後期になると、藤原氏と姻戚関係を持たない上皇による院政が始まり、さらに両氏の武家政権と移行するにつれ藤原氏の権勢は後退した。


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