藤原時平
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道真はその父菅原是善の時代から基経・時平家との関わりが深く、時平とも度々詩や贈り物を交わす関係であった[19]。昌泰2年(899年)には、父基経の事業を受け継いで建設した極楽寺(現在の宝塔寺の前身)定額寺とするための願い状の代筆を依頼するなど、文章家としての道真を高く評価していた[20]。道真の失脚は、藤原氏による他氏排斥の一環として考えられている[1][21]。しかし単に時平の陰謀によるものではなく、道真に反感を持っていた多くの貴族層、時平を含む藤原氏、源氏公卿、学者らの同意があった[22][23]

道真左遷後の時平は意欲的に政治改革に着手し、延喜2年(902年)最初の荘園整理令を出し、史料上で最後といわれる班田を実行した。また『延喜式』の編纂を行った。醍醐天皇の治世は延喜の治と呼ばれている。

延喜9年(909年)に39歳で死去。『扶桑略記』では『浄蔵伝』からの引用として道真の怨霊によるとされ、以降はもっぱらその見解が取られるようになった[24]。時平の死後、弟・忠平が朝廷の中心を占めるようになり、時平流は次第に没落していった。
人物・逸話

大鏡』には、時平は冷酷で無愛想な我慢のできない性格だったとあり、時平が非道を行おうとした際に道真の意を汲んだ太政官が仕掛けた放屁に思わず大笑いして止まらなくなってしまったので対処を道真に委ねて退出した話が残されている[25][26]。また、時平が華美な装束で参内すると、醍醐天皇の怒りを買って退出した、その後は自邸に閉じ籠って誰とも面会しなかったところ、その噂が広まって都では贅沢が治まった。これは時平と天皇があらかじめ打ち合わせをしていたことであるという[27]。『大鏡』では時平の「あさましき悪事」によって、一族が早逝したとしている[28]。また道真の才を高く評価する一方で「才もことのほか劣りたまへり」としながらも「やまとだましひなどは、いみじくおはしましたるも」と政治力を評価している[28]。また『大鏡』や『古事談』では時平を評したものとして、容貌・才覚ともに日本国には過ぎている、「日本のかために用いるにはあまらせたり」という評が伝えられている[29]

『寛平御遺誡』では、「先年、女のことにして失てるところあり」と時平が女性関係で問題を起こしたことが言及されている[29]。『今昔物語』や『大和物語』、『十訓抄』でも時平の好色な一面が描かれている。時平の伯父・藤原国経在原業平の孫娘を北の方(室)としていたが、その類い稀なる美貌の噂はすぐに時平の耳に届くところとなり、時平はそれが気になって居ても立ってもいられなくなってしまう。そこである日国経の邸を訪れて酒宴を開かせ、高齢の国経が酔い潰れた隙に北の方の許を訪れ、彼女を「自分の妻にしてしまった」[30]。この北の方と時平の間に生まれたのが三男・敦忠で、国経との間に生まれたのが滋幹である。『北野天神縁起絵巻』承久本第6巻より病に伏せる時平。両耳からは浄蔵を威嚇しようと青竜が出ている。

政治的には自らが権門勢家の頭領だったにも関わらず、荘園整理令を出す等意欲的に施政に取り組み、有能な政治家ではあったが、その能力を発揮できた期間は短かった。時平の早逝後、政治の実権は弟・忠平及びその系統に移り、時平の系統はいつしか中級下級の官位に甘んじる家格となって歴史に埋もれる事となった。角田文衛は忠平とその子師輔が道真の怨霊を強調することによって、時平の子孫らを圧迫したのではないかと見ている[21]。また師輔の兄藤原実頼の子、藤原頼忠は時平の娘を母とし、時平の嫡子藤原保忠の養子でもあり、師輔にとってはこれも圧迫の対象であった[31]

『大鏡』時平伝や『北野天神縁起絵巻』では、雷神となって清涼殿で威を奮った道真に対して抜刀し[32]、「生きてもわが次にこそものしたまひしか。今日、神となりたまへりとも、この世には、我に所置きたまふべし。いかでかさらではあるべきぞ。(生きている間は私の次席にあったではないか。今日、神となったとしても、いまこの世では私に遠慮するべきである。)」と道真をにらみつけ、一度は怨霊を鎮めたとされる[33]が、『大鏡』においては時平の威厳によってではなく「王威の限りなくおはしますによって」道真が理非をつけた[33]、つまり道真が官位の秩序について、道理と道理に反する事とのケジメを示した為である、と附記されている[34]。ただし、実際に清涼殿に落雷が発生したと史料で記録されているのは時平の死後11年が経過した後の清涼殿落雷事件ただ一例である[32]

また、『扶桑略記』では、時平は、道真の祟りを鎮めるために浄蔵和尚に頼み祈祷してもらうも、道真が現れ祈祷を制止したので浄蔵は調伏を辞退した。その後、ほどなくして時平は死去したという逸話が語られている。

鎌倉時代以降成立した天神説話などでは、時平は讒臣・極悪人として取り扱われている[1]。北野天神絵巻等では、自らより才にすぐれた道真が重用されることを妬んで讒言したこととなっており[35]御伽草子では内裏に放火させ、その罪を道真になすりつけるなど悪役としての時平像が形成されていった[36]。江戸期の安永6年 (1777年) には、並木五瓶の作による歌舞伎天満宮菜種御供』(てんまんぐう なたねの ごくう)が上演され、人気を博した。悪役として時平が登場し、『時平の七笑』(しへいの しちわらい)という別名で知られている。また昭和25年 (1950年) には、谷崎潤一郎が時平の逸話を題材とした『少将滋幹の母』を上梓している。その一方で、時平を祭神として祀る地域存在している(後述)。
官歴

特に典拠があげられていない限り、『日本三代実録』と『公卿補任』の記載による。日付は旧暦。

年紀年齢事歴
仁和 2 年
886年)16歳  1月  2日 元服、正五位下。
  4月  1日 次侍従。
仁和 3 年
887年)17歳  1月10日 従四位下。右近衛権中将。
  2月17日 右近衛権中将。
  8月26日 蔵人頭に補す(『蔵人補任』)。
  9月  8日 昇殿。
  9月21日 重ねて禁色を聴す。
仁和 5 年
889年)19歳  1月16日 讃岐権守を兼ぬ。
寛平 2 年
890年)20歳  1月  7日 従四位上。
11月26日 従三位(越階)。
寛平 3 年
891年)21歳  3月19日 参議に任ず。讃岐権守元の如し。
  4月11日 右衛門督を兼ぬ。
寛平 4 年
892年)22歳  2月21日 左衛門督を兼ぬ。
  5月  4日 検非違使別当を兼ぬ。
寛平 5 年
893年)23歳  2月16日 中納言。検非違使別当・左衛門督元の如し。
  2月22日 右近衛大将を兼ぬ。
  4月  2日 春宮大夫を兼ぬ。
寛平 9 年
897年)27歳  6月19日 大納言。左近衛大将を兼ぬ。氏長者。


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