藤原成親
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 凡例藤原 成親
時代平安時代末期
生誕保延4年(1138年
死没安元3年7月9日1177年8月4日
墓所岡山県岡山市北区吉備津藤原成親遺跡
官位正二位権大納言
主君近衛天皇後白河天皇二条天皇六条天皇高倉天皇
氏族藤原北家末茂流
父母父:藤原家成 母:藤原経忠
兄弟隆季、成親、実教 ほか
藤原親隆女、督の君、後白河院京極局
成経建春門院新大納言 ほか
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藤原 成親(ふじわら の なりちか)は、平安時代末期の公卿中納言藤原家成の子。正二位権大納言
生涯
生い立ち

父・家成が鳥羽法皇の第一の寵臣であったことから昇進は早く、康治元年(1142年)に5歳で従五位下に叙せられる。天養元年(1144年)、7歳で越後になって以降、讃岐守侍従・越後守(再任)を歴任する。父と同様に鳥羽法皇の側近となり、保元元年(1156年)4月には院宣により賀茂祭の祭使に選ばれ、19歳で左近衛少将に任じられた[1]永治元年(1141年)、成親の兄・家明が左少将になったことを藤原頼長が「諸大夫の僭上」と非難[注釈 1] しているように、近衛少将は本来なら上流貴族官職だった。成親が左少将となったのは、家成一門の家格の上昇と鳥羽法皇の厚い信頼を物語るものといえる。同年7月、鳥羽法皇の葬儀で成親は、信西らとともに入棺役を務めた。
後白河院の側近

保元3年(1158年)、右近衛中将となる。翌年には正四位下に叙せられ、越後守の重任も認められた。異母兄の隆季・家明が美福門院に近く仕えたのに対して、成親は妹が藤原信頼の妻となっていた関係から信頼と行動をともにするようになり、後白河院の側近に加わった。後白河院の成親への信頼は厚く、慈円は両者が男色関係にあったとする[注釈 2]

平治の乱では藤原信頼とともに武装して参戦する。敗北後、信頼が処刑されたのに対して、成親は妹・経子平重盛の妻であったことから特別に助命され、処分は軽く解官にとどまった。『愚管抄』によれば、「フヨウノ若殿上人」[注釈 3]とみなされたという。

永暦2年(1161年)4月、成親は右中将に還任する。美福門院の死後、後白河院政派と二条親政派の対立は激化しており、後白河院は自らの政治基盤の強化を意図していた。しかし同年9月に、平時忠らが憲仁親王(のちの高倉天皇)を皇太子に立てようとする陰謀が発覚すると、二条はただちに後白河院の近臣を解官した。成親もその中に含まれており、翌年には召還されるものの昇進は停滞し、二条親政下の政界では雌伏を余儀なくされる。

二条天皇死後の仁安元年(1166年)正月、成親は左近衛中将に任じられる。後白河院の復権の恩恵を受けて、同年6月蔵人頭、8月参議、12月には5人の上臈を超えて、29歳にして正三位に叙せられた。この年の10月には憲仁親王の立太子が実現し、後白河院は平清盛の後援を得て院政を本格的に開始した。成親は翌年、権中納言となる。平重盛の義兄であることから重盛との関係は親密で、成親の娘はのちに重盛の嫡子・維盛の妻となっている。嘉応元年(1169年)11月、高倉の八十嶋祭では経子が勅使を務め、成親も兄・隆季や平氏一門とともに付き従った。さらに保元の乱の結果、父の頼長に連座して配流されていた藤原師長が中央に復帰すると、成親は師長に娘を嫁がせてその復権に協力している[注釈 4]
嘉応の強訴詳細は「嘉応の強訴」を参照

後白河院は園城寺に早くから帰信して外護者としての立場をとったことから、園城寺と対立する延暦寺は後白河院の寺院政策に不満を抱いていた。嘉応元年(1169年)12月、尾張守・藤原家教の目代だった右衛門尉・藤原政友が、延暦寺領である美濃国平野荘神人と些細な問題で衝突した。事件自体は小さなものだったが美濃国は延暦寺の荘園が多く、後白河法皇は国司院近臣を任じて荘園抑止の政策をとっていた経緯もあり、延暦寺は成親の配流と政友の禁獄を求めて強訴を起こした(嘉応の強訴)。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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