藤原忠通
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^ 『殿暦』嘉承2年6月11日条。なお、忠通の子・兼実の日記『玉葉』には、忠通は法皇の実の妹である篤子内親王(堀河天皇中宮・藤原師実養女)の養子になったとする(承安5年7月26日条)が、忠通自身はかつて白河法皇と「父子契」を結んだと語っている(『中右記』大治4年7月17日条)。
^ 摂関家からは藤原寛子(頼通の娘)以来約80年ぶりの入内。なお、養女を含めると、堀河天皇中宮篤子内親王藤原師実養女、後三条天皇皇女)以来で38年ぶりとなる。
^ 正妻の藤原宗子との間には男子が生まれたが夭折。また、妾腹の男子に恵信(永久元年(1113年)生)・覚忠(元永元年(1118年)生)がいたが、いずれも出家している。この2人に対しては、正妻宗子が良い感情を抱いていなかったようであり(『今鏡』)、2人の出家については宗子への配慮または彼女自身の意図に依るものであることを窺わせる。ただし、樋口健太郎は、忠通と宗子の婚姻は元永元年10月26日であることは父・忠実の『殿暦』に記しており、同年生まれの覚忠も含めて、正式な婚姻をしていないのに子供をもうけたことを忠通が憚って出家させたもので、『今鏡』の記述は根拠のない濡れ衣としている[3]
^ 樋口健太郎は元々頼長との縁組は将来男子が誕生した時には忠通の子が成長するまでの中継ぎになる性質のものであったが、実際に基実が誕生すると父・忠実の後ろ盾を背景とした頼長が実子の兼長を養子にするように迫って基実を後継者から排除しようとしたために忠通と頼長は対立したと説き、むしろ縁組時の約束を違えたのは頼長側であったとみている。なお、忠通と兼長の縁組は久安4年(1148年)に忠通が兼長の春日祭使派遣に対する協力拒否を示した(『台記』久安4年11月11日条)ことで事実上破綻した[4]。樋口は別の論文で基実が忠通の姉である藤原泰子(高陽院)の養子になったのは、実際に兼長が摂関家としての後継者として決定され、代わりに基実が彼女の養子として所領を継承して没後の仏事を行う取り決めになったとしている[5]
^ 元木泰雄によると、忠通の奏上を受けた鳥羽法皇が忠実に対して「私とあなたが亡くなった後は皇位を巡り天下が乱れるだろう」と述べたとされる[6]。樋口健太郎によると、この当時(特に忠実による義絶後は)近衛天皇に面会出来るのは関白として内裏内部を仕切る忠通らごく一部の人間に限られ、天皇の健康情報も忠通によって独占されていたため、法皇は近衛天皇の病気を忠通の偽りではないかと疑っていたという[7]
^ 宇治殿領の内、高陽院領50余箇所は泰子の猶子となっていた忠通の四男基実に相続され、近衛家領の一部となった。ただし、前述の樋口説によれば、彼女の所領は元々頼長の圧力で基実が廃嫡された一種の見返りであるため、本来は摂関家の所領とはなるべきものではなかったとされる。
^ 頼長領は、父鳥羽の所領をほとんど相続できなかった後白河天皇の後院領に宛がわれ、後の長講堂領の基軸となった。

出典^ 『藤原忠通』 - コトバンク
^今鏡』第八、腹々の御子
^ 樋口健太郎 著「藤原忠通と基実―院政期摂関家のアンカー―」、元木泰雄 編『保元・平治の乱と平氏の栄華』清文堂出版〈中世の人物 京・鎌倉の時代編第1巻〉、2014年。 /所収:樋口 2018, pp. 166?167
^ 樋口 2018, pp. 168?170, 「藤原忠通と基実―院政期摂関家のアンカー―」.
^ 樋口 2018, pp. 188?189, 「摂関家九条流の形成と女院」.
^ 元木泰雄『保元・平治の乱を読み直す』〈NHKブックス〉2004年、67頁。 
^ 樋口 2018, pp. 27?30.
^ 佐伯智広「二条親政の成立」『日本史研究』505号、2004年。 /所収:佐伯智広『中世前期の政治構造と王家』東京大学出版会、2015年。.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISBN 978-4-13-026238-5。 
^ 角田文衛『平安の春』〈講談社学術文庫〉1999年、226頁。 
^ 山田彩起子『中世前期女性院宮の研究』思文閣出版、2010年、222-223・256・263頁頁。 
^ 樋口 2018, pp. 176?179.

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