藤原広嗣の乱
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脚注^ a b c d e f 山口県 2008, pp. 744?749.
^ 『続日本紀』天平12年4月2日条
^ 『続日本紀』天平12年9月3日条、「広嗣が兵を動かし、反乱した」とある。
^ 『続日本紀』同年10月9日条。
^ 『続日本紀』の記述では、「広嗣に従えば、己の身が滅ぶだけでなく、その罪は妻子や親族にまで及ぶぞ」と脅したことが記されている。
^ 『続日本紀』には、投降後、賊軍の作戦を報告した隼人の名は、「ソオノキミタリシサ」と記す。天平勝宝元年(749年)8月22日条では、タリシサを外正五位上から従五位下を授けたと記され、賊軍から投降したにもかかわらず、功績から貴族の地位になっている。
^ a b 『続日本紀』より。
^ 鬼頭清明『大和朝廷と東アジア』吉川弘文館、1994年、pp.171-172.
参考文献
山口県(編)『山口県史 通史編 原始・古代』山口県、2008年。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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