藤原師実
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10月15日:関白宣下。左大臣・左近衛大将は元の如し。

10月27日、左近衛大将を辞任。


永保3年(1083年)1月19日:左大臣を辞任。

応徳3年(1086年)11月26日:関白を止め、摂政宣下。

寛治2年(1088年)12月14日:太政大臣宣下。摂政は元の如し。

寛治3年(1089年)4月25日:太政大臣を辞す。

寛治4年(1090年)12月10日:摂政を辞し、関白宣下。さらに准摂政宣下。

寛治5年(1091年):藤原清衡より摂関家に初入貢(軍馬2蹄)。

寛治8年(1094年)3月8日:関白を辞す。後任は子の師通

康和3年(1101年)

1月29日:出家。法名は法覚。

2月13日:薨去。享年60。


系譜

父:
藤原頼通

母:藤原祇子 - 藤原頼成

妻:源麗子 - 藤原信家養女、実は源師房

男子:藤原師通(1062-1099)

養女:藤原賢子 - 実は源顕房の娘

養女:篤子内親王[4] - 後三条天皇の皇女であるが、師実の養女として堀河天皇に入内[注釈 4]


妻:源頼国

男子:藤原家忠(1062-1136) - 花山院家の祖

男子:覚信(1065-1121) - 母は源則成の娘の説あり

男子:静意(1069-1151)


妻:藤原基貞

男子:藤原経実(1068-1131) - 大炊御門家の祖

男子:藤原能実(1070-1132)


妻:藤原永業娘(?-1128)[6]

男子:藤原忠教(1076-1141) - 難波家の祖

男子:増智(?-1135) - 母は平定親の娘の説あり


妻:平行親

男子:覚実(1052-1092)


妻:源則成娘

男子:仁源(1058-1109) - 天台座主第40世


妻:平定親

男子:澄真(1069-1096)

男子:永実


妻:源顕房娘または源師賢

男子:仁澄(1079-1134)


妻:藤原忠俊娘

男子:尋範(1093-1174) - 母は源麗子または仁澄と同母の説あり、興福寺大乗院第3世

男子:行玄(1097-1155) - 母は源麗子の説あり、天台座主第48世


妻:法眼清円の娘または法橋頼円の娘

男子:玄覚(?-1138)


生母不明の子女

男子:藤原忠長

女子:藤原基隆[7]


関連作品
小説


森?外山椒大夫』 - 1994年に溝口健二監督により映画化(演:三津田健)。

脚注[脚注の使い方]
注釈^ そもそもは、藤原道長が生前に定めておいた方針に基づいている。
^ 関白職を獲得するまでの教通の忍従、特に頼通に対して従順であることは、ほとんど卑屈の域に達するものだった。ところがいったん関白に就任すると、教通はこれを自身の子である信長に譲ることを考え始める。教通は頼通が健在でいる間はたびたび関白の辞表を出したり、兼任していた左大臣を辞して頼通の嗣子・師実に譲ったりしていたが、いよいよ死期が近づいた頼通から関白を師実に譲るよう求められると、教通は天皇の裁可が必要云々を口実にこれを拒んだ。頼通は師実の関白就任を見届けることなく、延久6年(1074年)2月、83歳で死去した。
^ 当時、右大臣は空席。官を飛び越えられることは大変不名誉とされていた。
^ 篤子内親王の師実養女説の裏付として、師実や麗子の法要に内親王自らが参列していることなどが挙げられる[5]

出典^為房卿記』応徳3年11月26日条・寛治元年4月7日条。
^中右記』嘉保3年8月8日・16日条。
^ 『勅撰作者部類』
^扶桑略記』寛治7年2月22日条。
^ 栗山圭子「篤子内親王論」『中世王家の成立と院政』吉川弘文館、2012年 ISBN 978-4-642-02910-0
^ 藤原南家貞嗣流出身 
^尊卑分脈』藤原北家頼宗流系図。
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