藤原定家
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建久7年(1196年)反幕府派の内大臣源通親による建久七年の政変が起こると、九条兼実が関白を罷免され、太政大臣藤原兼房天台座主・慈円も要職を辞任した[15]。さらに、定家の義兄弟である蔵人頭西園寺公経左馬頭・藤原隆保も出仕を止められるなど、通親の圧迫は定家の近辺にまで及んだ[16]。この政変に伴う定家自身への影響は明らかでないが、九条兼実に連座して除籍処分を受けた可能性も指摘されている[17]

正治元年(1199年)頃より後鳥羽上皇の和歌に対する興味が俄に表面化し、正治2年(1200年)院初度御百首が企画される。当初、藤原季経六条家の策謀を受けて、源通親は定家を敢えて参加者から外したが、義弟・西園寺公経や父・俊成らの運動もあり、ようやく定家は参加を許される[18]。翌建仁元年(1201年千五百番歌合にも定家は参加して詠進を行い、いずれも後鳥羽上皇から好みにあったとの評価を受けている[19]。また同年には勅撰和歌集の編纂を行うことになり、定家は源通具らとともに院宣を受けて撰者に選ばれる。元久元年(1204年)勅撰集の名称として『新古今和歌集』を上申、いったん歌集は完成し、定家の和歌作品は41首が入集した[20]。なおその後、歌集に対して追加の切り継ぎが行われ、最終的に47首が採録されている[21]

一方で、建仁2年(1202年)定家は源通親宛に内蔵頭・右馬頭・大蔵卿いずれかの任官を望んで申文を提出したり[22]、当時強い権勢を持っていた藤原兼子(後鳥羽天皇の乳母)に対しても仮名状を送ったほか、兼子が病臥していると聞くと束帯姿で見舞いに行くなど、猟官を目的に権力者の意を迎えるために腐心した[23]。同年10月に源通親が没して政局は動揺した一方で、執拗な運動の効果があったためか、翌閏10月に定家は左近衛少将から左近衛権中将への昇任を果たしている[24]

中将在任は8年に亘るが蔵人頭への任官は叶わず、承元4年(1210年)正月に嫡男・為家の左近衛権少将任官の代わりに、定家は左近衛権中将を辞退するが、同年12月に年来の希望であった内蔵頭に任ぜられる。次に定家は公卿昇進を望んで、姉・九条尼から讃良荘(現在の大阪府四條畷市付近)・細川荘(現在の兵庫県三木市の東北方)の両荘園を藤原兼子に贈与する約束を行うなど猟官運動を続け、建暦元年(1211年従三位侍従に叙任されて50歳にして公卿に列した[25]

その後も、兼子に対する猟官運動が奏功して[26]建保2年(1214年参議に任ぜられて、父・俊成が得られなかった議政官への任官を果たすと、建保4年(1216年正三位に昇叙され、承久2年(1220年播磨権守を兼ねるなど、後鳥羽院政期において主家である九条家や外戚の西園寺家が沈滞する中でも定家は順調な官途を歩んだ。しかし、定家は昇進面で不満を持っていたらしく、承久2年(1220年)2月に行われた内裏歌合に官途に対する不満を託した和歌を持参したところ、後鳥羽上皇の逆鱗に触れて勅勘を受け、和歌の世界での公的活動を封じられてしまった[27][注 2]
承久の乱以降

承久3年(1221年承久の乱が起こると、後鳥羽上皇は配流され藤原兼子は失脚する一方で、権勢は定家の義兄弟である西園寺公経に移り、定家の主家である九条家も勢いを盛り返すなど、定家にとって非常に幸運な時代となる[29]。承久4年(1222年)参議を辞して従二位に叙せられると、嘉禄3年(1227年)には正二位に至った。正二位への昇進に際して定家は、承久の乱がなかったらこの叙位はなかったであろう、との感想を残している。さらに、70歳を越えても官位への執着が衰えなかった定家は権中納言への任官を望んで、寛喜2年(1230年)自らは老体のため妻に日吉神社への参籠祈念をさせ、翌寛喜3年(1231年)歩行困難の中で人に縋り付くようにして春日詣を行うなどする一方で、関白・九条道家に猛運動を行う[29]

こうしてついに、 寛喜4年(1232年)正月に71歳で権中納言に任ぜられる。権中納言在任時の『明月記』の記述はほとんど現存しないものの、他の記録や日記によって定家がたびたび上卿の任を務め、特に石清水八幡宮に関する政策においては主導的な地位にあったことが知られている。また、貞永改元四条天皇践祚などの重要な議定にも参加している。しかし、九条道家との間で何らかの対立を引き起こしたらしく[30]、同年の12月には権中納言を罷免されてしまい官界を退く[31]。翌天福元年(1233年)10月11日に慈心房(海住山長房)を戒師として出家、法名は明静を名乗った。
晩年

一方で、寛喜4年(1232年)6月に定家は後堀河天皇から『新勅撰和歌集』編纂の下命を受けて単独で撰出を開始。同年12月に権中納言を辞した後は撰歌に専念する。天福2年(1234年)6月に後堀河上皇の希望で1498首の草稿本を清書し奏覧(仮奏覧)する。後堀河上皇崩御後の同年11月に前関白・九条道家の要望で後鳥羽上皇ら承久の乱で処罰された歌人の和歌を削除し、文暦2年(1235年)3月に精撰本を道家に提出して完成した。なお、『新勅撰和歌集』への定家自身の作品の採録は15首と、『新古今和歌集』の47首と比べて大幅に少ない。さらに、このうち絢爛・華麗な新古今朝の和歌は少なく、質実な建保期以降の作品が中心となっている[21]

嘉禎元年(1235年宇都宮頼綱から嵯峨野(現在の京都市右京区嵯峨)に建てた別業(小倉山荘)の障子色紙に古来の歌人の和歌を1首ずつ揮毫して欲しいとの要望を受けて、定家は天智天皇から順徳院に至るまでの100人の歌人の和歌を1首ずつ選んで頼綱に対して書き送る[32]。後に、これが定家が小倉山で編纂したことに因んで『小倉百人一首』という通称で呼ばれるようになった。『小倉百人一首』は勅撰集と異なりバランスを考慮する必要がなく、定家の好みの和歌を自由に選んだためか、部類分けの内では、恋(46)、秋(15)が多くを占めている[33]

仁治2年(1241年) 8月20日薨去享年80。
人物

「美の使徒」
[34]、「美の鬼」[35]、「歌聖」[注 3]、「日本最初の近代詩人」[36]などと呼ばれることがある日本を代表する詩人の一人。美への執念は百人一首の撰歌に見られるように晩年まで衰えることがなかった。

『玉葉』によると文治元年11月、少将雅行に嘲弄されたことに激怒して、脂燭(ししょく)で相手を殴り除籍となり、『古今著聞集』によると父俊成から和歌によって取りなして貰い、後鳥羽天皇から許しを得たとあるほど気性が激しく、また『後鳥羽院御口伝』によると「さしも殊勝なりし父の詠をだにもあさ/\と思ひたりし上は、ましてや余人の歌沙汰にも及ばず」、「傍若無人、理(ことわり)も過ぎたりき。他人の詞(ことば)を聞くに及ばず」と実父を含む自分以外の人間の和歌を軽んじ、他人の言葉を聞き入れない強情さを指摘されている。また、どんなに後鳥羽院が褒めても、自詠の左近の桜の述懐の歌が自分では気に入らないからと、新古今に入撰することに頑強に反対するなど、身分の高下にかかわらず相手がだれであろうと自説を曲げることがなかった。順徳天皇歌壇の重鎮として用いられるも、承久二年の内裏歌会への出詠歌が後鳥羽院の勅勘を受け、謹慎を命じられた。


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