藤原基経
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それが本当に殺人なのか、あるいは過失なのかは不明であり、また犯人も不明とされた。しかし、宮中では陽成天皇が殴り殺されたと噂された。この事件の直後、馬好きの陽成天皇が厩を禁中に作り、卑位の者に世話をさせ、飼っていた事実が明らかになる。基経は宮中に入り、天皇の取り巻きと馬を放逐させた[4]。後の記録には陽成天皇は暴君として描かれており、それによると天皇は蛙、蛇を捕え、または犬と猿を闘わせて喜び、人を木に登らせて墜落死させたという。

元慶8年(884年)、基経は天皇の廃立を考え、仁明天皇の時に廃太子された恒貞親王に打診したが、既に出家していた親王から拒否された。そこで仁明天皇の第三皇子の時康親王が謙虚寛大な性格であったので、これを新帝と決めた。時康親王の母は藤原総継の娘・沢子で、基経の母・乙春とは姉妹であり、基経は時康親王の従兄弟にあたる。公卿を集めて天皇の廃位と時康親王の推戴を議したところ、左大臣源融嵯峨天皇の第12皇子)は自分もその資格があるはずだと言いだした。基経はを賜った者が帝位についた例はないと退け、次いで参議・藤原諸葛が基経に従わぬ者は斬ると恫喝に及び、廷議は決した。基経には娘である藤原佳珠子と清和天皇の子貞辰親王や、高子と清和天皇の子貞保親王といった外戚となる皇子がいたが、基経は幼君を忌避し、老齢の親王の擁立に至った。瀧浪貞子は幼君を擁立することで陽成が太上天皇として実権を握ることを警戒したためとしている[10]

公卿会議の決定を持って、陽成天皇に退位を迫った。孤立した年少の天皇に、抗する術はなかった。
事実上の関白

元慶8年2月4日、時康親王は天皇の位に就いた(光孝天皇)。天皇は既に55歳だったが、皇嗣の決定も基経に委ねるつもりで、あえて定めなかった。天皇としては、天皇位を血縁者に継がせたいと基経は希望するであろうはずである、と考えていたらしく、即位式後の4月13日に自身の皇子皇女26人を全員臣籍降下させて源氏とすることで、自らの系統には皇位は継がせない事を基経にアピールした[10]。さらに6月5日には太政大臣である基経に機務奏宣(太政官から上ってきた事項を天皇に奏上する)の権限を認めた詔を発した[11]。機務奏宣は後の関白の職務であり、これは事実上の関白就任とみられている[12]

仁和3年(887年)、光孝天皇は重篤に陥った。陽成上皇と皇太后高子は存命であり、基経は貞辰親王ではなく天皇の第7皇子の源定省を皇嗣に推挙した。定省は天皇の意中の子であり、天皇は基経の手を取って喜んだ。定省は光孝天皇即位以前より尚侍を務めた基経の妹淑子に養育されており、藤原氏とも無関係ではなかった。臣籍降下した者が即位した先例が無かっため、臨終の床にあった天皇は定省を先ず親王に復し、さらに東宮と成した同日に崩御した。定省は直ちに宇多天皇として即位した。
阿衡事件詳細は「阿衡事件」を参照

光孝天皇は生前に基経と宇多天皇の手を取り、宇多を基経の子のように輔弼するようにと遺命していた[13]。11月21日、宇多天皇は先帝の例に倣い大政を基経に委ねる事とし、左大弁橘広相に起草させ「万機はすべて太政大臣に関白し、しかるのにち奏下すべし」との詔を行った。関白の号がここで初めて登場する。また基経の妹淑子を従一位に昇叙している[14]。基経は儀礼的にいったん辞意を乞うが、天皇は重ねて広相に起草させ「宜しく阿衡の任を以て、卿の任となすべし」との詔をした。阿衡とは中国の故事によるものだが、これを文章博士藤原佐世が「阿衡には位貴しも、職掌なし」と基経に告げたため、基経はならばと政務を放棄してしまった。

宇多天皇は困り果て、真意を伝えて慰撫するが、基経は納得しない。阿衡の職掌について学者に検討させ、広相は言いがかりであるとして抗弁したが、宇多は辞退を収拾するために「阿衡」の語があった詔書は自らの意に沿わない誤りであったとして訂正の詔書を出すこととなった。しかしこれにより広相の責任問題が噴出し、公卿らが広相をボイコットする事態となった。宇多は基経の娘温子女御にすることで融和を図り、基経に広相の処分を行わないよう働きかけることで、仁和4年(888年)10月に和解が成立した。この事件は基経の天皇に対する示威行為であるとか、娘が宇多の二人の皇子を儲けていた広相の失脚を狙ったものという見解が有力であったが、近年では基経が自らの地位と権限の確認を求めたものであるという説が有力となっている[13]

寛平2年(890年)冬ごろに病床につき、平癒を願って10月30日には大赦が行われ、天皇から度者30人を賜った[15]。基経はこれを拝辞しようとしたが、天皇は重ねてこれを受けるよう勅している[15]。寛平3年(891年)薨去。享年56。正一位が贈られ、越前国に封じられた上で昭宣公と諡された。
官歴

※日付=旧暦

仁寿2年(852年)1月、蔵人に補任(この頃に良房養子になったとみられる)

仁寿4年(854年

1月、左兵衛少尉に遷任。

10月11日、従五位下に叙し、侍従に任官。(侍従は11月2日任官の説あり)


斉衡2年(855年

1月15日、左兵衛佐を兼任。

4月20日、蔵人に補任。


天安元年(857年)3月、少納言を兼任。

天安2年(858年

1月15日、左兵衛佐を兼任。・蔵人・少納言・侍従如元。

9月14日、左近衛少将に転任。少納言如元。

10月、蔵人頭に補任。

11月25日、播磨介を兼任。


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