藤原冬嗣
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さらに娘で仁明天皇の女御であった順子所生の道康親王が嘉祥3年(850年)に即位(文徳天皇)した際に、太政大臣追贈された。

平安左京三条二坊にあった私邸が閑院邸と称された事から、閑院大臣と言われる。
人物

才能と度量があり、温和でゆったりとした性格であった。文武の才を兼ね備える一方、柔軟な考え方を持ち、寛容な態度で他人接した事から人々の歓心を得る事ができた。また、与えられた封戸を分けて貧しい人への施しを行ったという。[7]

嵯峨天皇の命令を受けて『弘仁格式』『日本後紀』『内裏式』等の編纂に従事した。また、『文華秀麗集』を撰進し、その『文華秀麗集』のほか『凌雲集』『経国集』に漢詩作品が採録されるなど、冬嗣は中国古典にも精通していたらしく、その面でも中国文化に傾倒した嵯峨天皇の期待に十分応えたものと考えられる[8]。なお、勅撰歌人として『後撰和歌集』に4首の和歌作品が採録されている[9]

政界での活躍の他、藤原氏の長として一族をまとめる事に心を砕き、弘仁12年(821年)に藤原氏子弟の教育機関として大学別曹勧学院を建立したほか、かつて光明皇后の発願により儲けられた施薬院の復興・経営も行い、両者を合わせて運営費用として大臣の職封2000戸うち半分の1000戸を充てた[10]。また、弘仁4年(813年)に氏寺興福寺への南円堂の建立を行い、南円堂の建立時に内麻呂が造立した不空羂索観音を安置したとされる[11]
官歴

脚注のないものは『六国史』による。

延暦20年(801年) 閏正月6日:大判事[12]

延暦21年(802年) 3月:左衛士大尉[注釈 3][12]。5月14日:左衛士大尉[12]

大同元年(806年) 10月9日[注釈 4]従五位下春宮大進[12]春宮・賀美能親王)

大同2年(807年) 正月23日:春宮亮[12]

大同4年(809年) 正月16日:兼侍従。2月13日:右少弁、侍従春宮亮如元。4月13日:正五位下嵯峨天皇即位)。4月14日:従四位下、左衛士督[12]。5月5日:兼大舎人頭[12]。12月:兼中務大輔[12]

大同5年(810年) 正月:兼備中守[12]。3月10日:蔵人頭[12]。7月16日:美作守[12]。9月6日:造宮使。9月16日:兼式部大輔。11月22日:従四位上

弘仁2年(811年) 正月29日:参議。6月:左衛門督[12]。10月11日:兼春宮大夫(春宮:大伴親王)、停式部大輔

弘仁3年(812年) 10月:辞官(父服喪)[12]。11月28日:復本官。12月5日:正四位下、兼左近衛大将[12]

弘仁5年(814年) 4月28日:従三位

弘仁7年(816年) 正月:兼近江守[12]。10月18日:権中納言[12]。日付不詳:陸奥出羽按察使[12]

弘仁8年(817年) 2月2日:中納言[12]

弘仁9年(818年) 6月16日:正三位大納言

弘仁12年(821年) 正月9日:右大臣

弘仁13年(822年) 正月7日:従二位[12]

弘仁14年(823年) 4月27日:正二位

天長2年(825年) 4月5日:左大臣

天長3年(826年) 7月24日:薨去(左大臣正二位兼行左近衛大将)。7月26日:正一位

嘉祥3年(850年) 7月17日:贈太政大臣

系譜

尊卑分脈』による。

父:藤原内麻呂

母:百済永継 - 飛鳥部奈止麻呂女、のち桓武天皇女嬬良岑安世

同母兄: 藤原真夏

妻:藤原美都子 - 藤原真作

長男:藤原長良(802-856)

二男:藤原良房(804-872)

五男:藤原良相(811-867)

長女:藤原順子(809-871) - 仁明天皇女御文徳天皇


妻:百済王仁貞

三男:藤原良方(?-?)


妻:安倍男笠

四男:藤原良輔(?-?)

六男:藤原良門 - 勧修寺流


妻:嶋田村作女(?-860)

七男:藤原良仁(819-860)


妻:大庭王

八男:藤原良世(823-900)


妻:不明

次女:藤原古子 - 文徳天皇女御

栗原弘は、藤原美都子が最初の子である長良を生んだ際に冬嗣が既に28歳である事、冬嗣より美都子が6歳年下である事から、20歳前には既に妻を迎えている当時の貴族の男子の慣例と比較した場合の異質性を指摘し、美都子の前に逸名の妻が存在したとする説を唱えている[13]。また、請田正幸は藤原良房を生んだのは藤原美都子ではなく八男・良世を生んだ大庭王の娘であったとする説を唱えており、冬嗣と大庭王の娘の婚姻は冬嗣が中納言(25歳)となった延暦17年(799年)以降に成立したとする説を唱えている[14]

冬嗣の子息の名前には「良」が通字として使用されている。一方で、嵯峨天皇の諸皇子の名前にも同じく「良」が使われており(正良、業良秀良など)、皇子の生年時期から冬嗣の子息の名前を承知した上で命名されたものと見られる。さらに、仁明天皇(正良)の即位後も、「良」を使った冬嗣の子息が改名するような動きも全くなかった。これについて瀧浪貞子は、冬嗣と嵯峨天皇・橘嘉智子の間でそれぞれの子息に「良」の字を共通させることで、冬嗣一家を天皇家の縁戚と見做す表明であったとする見解を唱えている[10]
藤原冬嗣を題材とした小説


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