藤原兼通
[Wikipedia|▼Menu]
天延2年(974年)には頼忠に代わって藤氏長者となり、正二位・関白太政大臣に叙任され、天延3年(975年従一位に昇った。貞元元年(976年内裏で火事が発生すると、天皇は兼通の邸宅である堀河第に移り、時の人はこれを「今内裏」と呼んだ[11]
晩年、後継を巡って

弟の兼家との不仲は相変わらず顕著で、兼通の関白就任後には兼家の昇進を全く止めたばかりか、異母弟の為光を筆頭大納言として兼家の上位に就ける程であった。さらに、兼通の娘の中宮・?子に対抗して、兼家の方でも冷泉上皇の女御であった長女・超子に次いで、次女の詮子をも円融天皇に入内させようとしており、兼通はこれを激しく非難して妨害した。すると円融天皇は「詮子を入内させないのは、超子が生んだ子に皇位継承されるのを兼家が望んでいるのではないか」と疑って兼家を遠ざけ、かえって兼通を重用するようになっていった[注釈 3]。超子が冷泉天皇皇子の居貞親王(後の三条天皇)を生むと、兼通はますます不機嫌になり、円融天皇に讒言する有様であった。また、兼家の東三条第閑院を間に挟んで堀河第に近接していたが、東三条第に客が来ると兼通はこれを罵り、人々は恐れて夜に忍んで東三条第を訪ねるようになった[11]

一方で兼通が頼りにしたのは従兄の右大臣・頼忠であり、全ての政務を二人で相談して執り行っていると評されるほどであった[11]。加えて、かつて藤氏長者を譲られたこともあって、頼忠を自分の後継にと考えていた。ところが、左大臣源兼明は太政官の筆頭として、兼通と伍する政治力を有していた(太政大臣は太政官の実務に携われない慣例であり、左大臣が事実上の最高責任者となる)。ここで兼通は頼忠を太政官の最高責任者である一上に任じて兼明の政治的権限を剥奪した上で、兼明を親王に復帰させ(親王は政務に携われない慣例だった)、空いた左大臣に頼忠を任じた。

貞元2年(977年)10月に重い病に伏した兼通は、家人より東三条第から車がやって来ると報を受けた。てっきり兼家が見舞いに来るのかと察した兼通は、周囲を片づけさせて来訪を待っていたところ、兼家の車は門前を通過して内裏へ行ってしまった。兼通がもう臨終だと思った兼家は、早速天皇に後任を奏請するつもりだったのである。これを知った兼通は激怒して起き上がり、四人に支えられながら病をおして参内した。ちょうど、天皇に奏請していた最中に兼通が現れたため、驚愕した兼家は他所へ逃げてしまった。兼通は最後の除目を行うと宣言し、左大臣頼忠をもって自分の後任の関白とした。その上で、兼家の右近衛大将の職を解き治部卿へ降格してしまった。天皇もその気魄に逆らうことができなかった。兼通は居並ぶ公卿たちを顧みて、右近衛大将を欲する者はないかと問う。公卿たちは言葉も出なかったが、中納言・藤原済時が進み出て求め、右近衛大将に任じられた[13]

それから程無い同年11月8日薨去。享年53。正一位を贈られるとともに、忠義公と諡され、遠江国に封ぜられた。
略系図

        

  藤原忠平

               
         
  実頼     師輔

                                
                    
  頼忠     伊尹 兼通 村上天皇女御安子 兼家 為光

                             

  〔小野宮流〕         冷泉天皇女御?子      〔九条流

                           
           
          冷泉天皇憲平親王 為平親王 円融天皇守平親王    

                      

                  〔現皇室〕


人物

きらきらと輝くような美しい容貌をしていた。臨時客の日に真っ盛りに咲いていた紅梅を一枝手折ってに挿し、少し形だけの手つきをした姿の立派さが『大鏡』で賞賛されている。

寝酒の肴に絞めたばかりの雉の生肉を食べることを好んだが、毎日その時間にちょうど合うように雉を準備するのが難しいため、宵のうちから生きた雉を用意していたという[14]
官歴

注記のないものは『公卿補任』による。

天慶6年(943年)正月7日:叙爵従五位下

天慶9年(946年)2月20日:周防権守。7月24日:昇殿。9月16日:侍従

天暦2年(948年)5月29日:左兵衛佐

天暦4年(950年)正月7日:従五位上

天暦6年(952年)正月16日:兼大和権介

天暦9年(955年)2月23日:兼紀伊権介。7月29日:左近衛少将、紀伊権介如元。

天暦10年(956年)正月27日:兼近江権介

天暦11年(957年)11月27日:正五位下

天徳2年(958年)7月29日:禁色。10月27日:兼中宮亮(中宮・藤原安子

天徳4年(960年)正月7日:従四位下。正月24日:中宮権大夫。5月4日:服解(父師輔薨去)。6月26日:復任。9月4日:兼春宮亮(春宮・憲平親王

応和3年(963年)9月4日:兼美濃権守

応和4年(964年)4月29日:止中宮権大夫(藤原安子崩御)

康保4年(967年)正月20日:内蔵頭。正月25日:蔵人頭。5月25日:止蔵人頭、止昇殿(村上天皇崩御)。6月26日:昇殿。9月1日:東宮昇殿。10月11日:従四位上。

安和元年(968年)11月23日:正四位下

安和2年(969年)正月23日:参議。閏5月21日:兼宮内卿。9月27日:従三位

安和3年(970年)正月25日:兼讃岐権守。正月28日:兼美濃権守

天禄3年(972年)閏2月29日:権中納言。10月27日:内覧[5]。11月27日:内大臣関白[15]

天禄4年(973年)正月7日:正三位

天延2年(974年)正月7日:従二位。2月8日:藤原氏長者。2月28日:太政大臣正二位。3月26日:関白[注釈 4]

天延3年(975年)正月7日:従一位

貞元2年(977年)10月11日:辞関白・太政大臣。11月4日:准三宮。11月8日:薨御。11月20日:贈正一位。封遠江国

系譜

父:
藤原師輔

母:藤原盛子 - 藤原経邦の娘

妻:昭子女王 - 元平親王(陽成天皇の皇子)の娘


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:74 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef