藤原兼家
[Wikipedia|▼Menu]
兼家は関白を望むが、一族の長老であった頼忠が引き続き在任し、更に甥(長兄伊尹の遺子)の藤原義懐が、天皇の伯父の資格で権中納言にまで昇進、朝政を主導するようになり、権力は複雑化する。

しかし、寛和元年(985年)7月に寵愛していた女御藤原?子が急死したことから、花山天皇は絶望して世を棄てることを言い出した。兼家一派はこの間隙を突き、翌寛和2年(986年)6月に兼家の三男・道兼の手引きで花山天皇を宮中から連れ出し、山科元慶寺で天皇を出家させ、退位に追い込んだ。出し抜かれた形の義懐も後を追って出家し、失脚した(寛和の変)。
全盛

寛和の変によって孫の東宮・懐仁親王が践祚し(一条天皇)、兼家は天皇の外戚となり摂政・氏長者となる。天皇の外祖父が摂政に就任するのは、人臣最初の摂政となった藤原良房清和天皇外祖父)以来であった。

ところが、当時右大臣であった兼家の上官には前関白の太政大臣・藤原頼忠と左大臣源雅信がいた。特に雅信は円融天皇の時代から一上の職務を務め、法皇となった円融の信頼を背景に太政官に大きな影響力を与えていた。一方、頼忠も雅信も皇位継承可能な有力皇族との外戚関係がなかったために、謀叛などの罪を着せて排斥することも出来なかった。そこで兼家はこの年に従一位准三宮の待遇を受けると共に右大臣を辞して、初めて前職大臣身分(大臣と兼官しない)の摂政となった。右大臣を辞した兼家は頼忠・雅信の下僚の地位を脱却し、准三宮として他の全ての人臣よりも上位の地位を保障されたのである。

また、一条天皇を本来は一氏族である藤原氏の氏神にすぎない春日社へ行幸させたほか、道隆・道兼・道長ら子息を次々と公卿に抜擢し、弁官を全て自派に差し替えるといった強引な人事をおこなったり、自邸東三条殿の一部を内裏の清涼殿に模して建て替えたりして、自流の地位を他の公家とは隔絶したものに高めた。その一方で有能な人材の登用、官僚機構再生のため新制の発布、梅宮祭・吉田祭・北野祭を公祭と定めて主催の神社を国家祭祀の対象として加え、のちの二十二社制度の基礎を作るといった、一条朝における政治的安定にも貢献した。

寛和2年(986年)一条天皇の践祚後わずか2ヶ月ほどの間に、摂政兼家は嫡男の道隆を三位中将から一挙に権大納言に引き上げる。さらに、翌寛和3年(987年)には摂関の後継たるべく内大臣へ抜擢しようとするが、円融法皇から反対されすぐには実現しなかった。その後も3年余り奏上を続けて、永祚元年(989年)になってようやく道隆を内大臣に任命し[3]、律令制史上初めての「大臣4人制」を実現させている。なお、この年に藤原頼忠が没すると、兼家はその後任の太政大臣に就任した。翌永祚2年(990年)正月の一条天皇元服に際しては加冠役を務める。これを機に同年5月、関白に任じられるも、わずか3日で病気を理由に嫡男・道隆に関白を譲って出家、如実と号して別邸の二条京極殿を「法興院」という寺院に改めて居住したが、約2ヶ月後の7月2日に病没。享年62。

のちに兼家の家系は大いに栄え、五男・道長の時に全盛を迎える。

兼家は左中弁藤原在国、右中弁・平惟仲を信任し、「まろの左右の目である」と称した。また、高名な武士の源頼光が兼家に仕え、名馬30頭を献上をしている。打伏神子(うちふしのみこ)を甚だ信じ、動静全て彼女の言葉に従ったともいう。
略系図

             

        藤原忠平

             九条流

                  
          
    実頼     師輔

                                  
               
    頼忠     伊尹 兼通 村上天皇女御安子 兼家

                                                   
                                      
円融天皇中宮遵子 公任 冷泉天皇女御懐子 義懐 冷泉天皇憲平親王 円融天皇守平親王 道隆 冷泉天皇女御超子 道兼 円融天皇女御詮子 道長

                                                 

    〔小野宮流〕 花山天皇師貞親王             〔中関白家〕 三条天皇居貞親王     一条天皇懐仁親王 〔御堂流

                                            

                                    〔現皇室〕    


官歴

公卿補任』による。

天慶9年(946年) 10月:童殿上

天暦2年(948年) 正月7日:従五位下(中宮御給)

天暦3年(949年) 4月12日:昇殿

天暦4年(950年) 5月21日:侍従

天暦5年(951年) 5月23日:右兵衛佐

天暦9年(955年) 2月28日:兼紀伊権介。11月26日:従五位上(朔旦、殿上、従下一)

天暦10年(956年) 9月11日:少納言

天徳4年(960年) 正月7日:正五位下(中宮御給)。5月4日:服解(父)。6月26日:復任

応和2年(962年) 正月7日:従四位下。正月16日:東宮昇殿(東宮・憲平親王)。5月16日:兵部大輔

応和3年(963年) 正月3日:昇殿

応和4年(964年) 3月27日:左京大夫

康保4年(967年) 正月:従四位上。正月20日:兼美濃権守。2月5日:兼春宮亮(春宮・憲平親王)。6月10日:蔵人頭。9月1日:兼春宮権亮(春宮・守平親王)。10月7日:兼左近衛中将。10月11日:正四位下

安和元年(968年) 11月23日:従三位、蔵人頭左近衛中将如元(三位中将蔵人頭例)

安和2年(969年) 2月7日:中納言、兼春宮大夫、蔵人頭・左近衛中将如元(中納言蔵人頭兼帯例)。4月11日:去蔵人頭。8月13日:昇殿、止春宮大夫(践祚)。9月21日:正三位

安和3年(970年) 4月12日:兼春宮大夫(春宮・師貞親王)。8月5日:兼右近衛大将、止大夫

天禄3年(972年) 閏2月29日:権大納言

天延3年(975年) 正月26日:兼陸奥出羽按察使

貞元2年(977年) 10月11日:止右近衛大将、兼治部卿

天元元年(978年) 10月2日:従二位右大臣

天元2年(979年) 3月27日:正二位(八幡御祈使賞云々)。4月19日:着座

寛和2年(986年) 6月24日:摂政藤氏長者。6月28日:賜随身。7月20日:辞右大臣。7月21日:従一位


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:83 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef