藤原伊周
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道長は正月25日の県召除目で伊周の円座を撤する(出席をさせない?)ことを命じ、一件が世上の噂に上るのを待って上意を動かした。2月5日には一条天皇が検非違使別当だった実資に伊周邸、紀伊前司菅原董宣(伊周の家司)宅、及び右兵衛尉致光(伊周の郎等)宅の捜索を許可した。五位以上の者の邸宅でも勅許を待たずに捜索を先行させるようにとの勅命だった。伊周は私兵を多く蓄えているとの噂があり、また実際に董宣宅から兵士八人・弓矢二具が見つかり、致光宅からは七、八人の兵士が逃げ去ったという。2月11日には陣定の最中に、天皇から頭中将藤原斉信に対して内大臣伊周と中納言隆家の罪名勘申の旨を有司に伝達するように命令が出され、道長に伝えられた。以後この事件の捜査は天皇の意向が優先され、道長らの決定が後追いするという展開で進む。同4月1日に法琳寺の僧によって、国家にしか許されない大元帥法を伊周が私に修したことも奏上される。4月24日に至り、花山法皇を射た不敬、東三条院呪詛、大元帥法を私に行うこと三ヶ条の罪状により、除目で内大臣伊周を大宰権帥に、中納言隆家を出雲権守に降格する宣旨が下され、彼らの異母兄弟や外戚高階家、さらに中宮の乳母子[要出典]源方理らも左遷されたり殿上籍を削られたりと、ことごとく勅勘を蒙った[4]

懐妊中の中宮定子は前月初めから里第二条北宮に退出しており、左衛門権佐惟宗允亮は御在所の西の対に在る伊周に配流の宣命を伝えたが、伊周は重病と称して出立を拒んだ。数日間膠着状態が続いたが、5月1日早朝になって朝廷は宣旨を降し中宮御所の捜索を許可。検非違使率いる武士が戸を壊し御所に乱入した。この時捕えられたのは隆家だけで邸内に伊周の姿はなかったが、伊周は3日後僧形で帰ってきた。春日大社や木幡にある父道隆の墓に参詣していたのだという[8]。伊周は数日後に配所に向けて出発している。5月15日伊周を播磨国に、隆家を但馬国に留める勅が発せられている。伊周の母貴子は出立の車に取り付いて同行を嘆願したが許されず、やがて病の床に就く。10月初めに伊周は病む母を思って密かに入京し中宮定子の御所に匿われたが、中宮大夫 平生昌[4]や平孝義[9]らの密告により10月11日に捕えられ、改めて大宰府へ護送されて同年暮れに到着した。藤原実資は伊周のこれまでの行いの報いであると評している[注釈 4]

同年12月に定子は失意と悲嘆の中で、一条天皇の第一皇女となる脩子内親王を出産する。一方、折柄の東三条院の病気の平癒を願って朝廷は翌長徳3年(997年)4月5日大赦を発し、これをうけて大宰権帥伊周と出雲権守隆家兄弟の罪科を赦し、太政官符を以てこれを召還することに決した。こうして伊周はこの年の12月に帰洛した。

その後、長保元年(999年)11月7日に定子は第一皇子の敦康親王を出産。同日に入内6日目の道長の長女彰子女御の宣旨が下った。道長は蔵人頭藤原行成をして東三条院と一条天皇に働きかけ、翌長保2年(1000年)2月25日に彰子を立后させて中宮とし、定子は皇后に移って一帝二后となった。定子はその年の暮れの12月に第二皇女?子内親王を出産したが、後産が降りぬままに翌日未明に死去。御産に奉仕していた伊周は座産の姿勢のままで死んだ妹の亡骸を抱き、声も惜しまず慟哭したという。皇后葬送の日、大雪の中を歩行して従った伊周が詠んだ「誰もみな消えのこるべき身ならねど ゆき隠れぬる君ぞ悲しき」が『続古今和歌集』に入集している。
翻弄と失意の晩年

長保3年(1001年)閏12月16日、重病に悩まされる東三条院は、一条天皇に伊周を本位(正三位)に復すよう促したという。なお、この前年の長保2年(1000年)には道長が天皇に、伊周復位の奏上を行ったものの、天皇が異常な奏上だとして取り上げなかったとされる[10]。長保5年(1003年)9月22日に伊周は従二位に叙せられ、寛弘2年(1005年)2月25日正式に座次を大臣の下・大納言の上と定められ、翌月26日には改めて昇殿を聴される。4月24日には伊周が極秘に参内をして天皇と会見し[11]、11月13日には朝議に参加した。この間の寛弘元年(1004年)秋には、道長が伊周作の「入宋僧寂照の旧房に到る」詩に唱和し、奏上して御製の詩を賜ったという、ささやかな交流の話も伝わる。

長保から寛弘初年にかけて、伊周が廟堂に復帰した背景には、なかなか皇子女を産まない中宮彰子に一条天皇が敦康親王を養わせ、道長も親王に奉仕を怠らなかったことが関係する。皇位継承の最短路線上にある親王の伯父である伊周に対して、世人は昼は道長に仕えても、夜は密かにその屋敷へ参上し続け、それが敦成親王(のちの後一条天皇)の誕生後は絶えたという[12]。この間の寛弘4年(1007年)伊周・隆家兄弟が伊勢国を基盤とする武士の平致頼を抱き込んで、8月2日に平安京を出発して大和国金峰山参詣中の道長に対して暗殺を実行しようとしているとの噂がにわかに浮上し[13]、8月13日には道長と連絡を取るために頭中将源頼定が勅使として派遣される。結局、暗殺の噂はあくまでも噂に終わり、8月14日に道長は無事帰京している。寛弘5年(1008年)正月16日に伊周は大臣に准ぜられ封千戸を賜り(のちに准大臣と称される地位。以後「儀同三司」と自称)、朝議にも発言権が持てるようになったが、同年9月11日に彰子が一条天皇の第二皇子敦成親王を産んだことは、甥の即位を強く望む伊周にとって致命的な打撃となった。落胆した彼は、敦成親王百日の儀に列席し、請われもしないのにあえて和歌序を執筆し、一座を驚かせた。この時の序文は、『新撰朗詠集』に選ばれるほど素晴らしい出来であったが、時の人々は伊周の挙動を非難したという。寛弘6年(1009年)正月7日に正二位に叙せられるも、翌月20日には中宮と新生の皇子に対する呪詛事件が起き、伊周の叔母高階光子が入獄させられ、伊周は直ちに朝参を止められた。その後4ヶ月も経たぬ6月13日には早くも一件落着して、伊周は朝参を聴され、また本来は武官にしか許されない「帯剣」の殊遇も得た。

伊周は翌寛弘7年(1010年)正月28日、37歳で没した[注釈 5]。臨終に際し、彼は后がねに育てた2人の娘へ「くれぐれも、宮仕えをして、親の名に恥をかかせることをしてはならぬ」と、また息子道雅に「人に追従して生きるよりは出家せよ」と遺言したという。死後、その邸である室町第は群盗が入るほど荒廃し果てた。加えて道長側の政治的意向もあり、伊周の次女は道長の長女藤原彰子への出仕を余儀なくされている[15]。嫡男道雅は、三条院の皇女当子内親王との恋を引き裂かれて以後、官途にも恵まれず多くの乱行に及び、「荒三位」と渾名された。長女は道長の次男頼宗の正室として重んぜられ、右大臣俊家・内大臣能長を始めとする多くの子をなした。頼宗の孫藤原全子藤原頼通の孫師通に嫁いで嫡男忠実を生んだ。そのため女系ながらも、伊周の血筋は摂家に繋がっている。

駿河大森氏など、子孫を名乗る家もある。
人物

才名高かった母貴子から文人の血を享けた伊周は属文の卿相として、漢学に関しては一条朝随一の才能を公認され、早くから一条天皇に漢籍を進講した。『本朝麗藻』『本朝文粋』『和漢朗詠集』に多くの秀逸な漢詩文を残し、その感慨に富む筆致は時に世人の涙を誘う[注釈 6]。歌集『儀同三司集』は散逸してしまったが、『後拾遺和歌集』(2首)以下の勅撰和歌集に6首が採録されている勅撰歌人である[17]。『大鏡』は彼の不遇を自身の器量不足に求めつつも、その学才が日本のような小国にはもったいなかったという。

心が幼い人であった[注釈 7]との評価がある一方、その容姿は端麗だったと『枕草子』『栄花物語』などに見える。
作品題「花落春歸路」

春歸不駐惜難禁 花落紛紛雲路深
委地正應隨景去 任風便是趁蹤尋
枝空嶺徼霞消色 粧脆溪閑鳥入音
年月推遷齡漸老 餘生只有憶恩心 ? 本朝麗藻・巻上・春部、深を以て韻となす
官歴

公卿補任』による。

寛和元年(985年) 11月20日:従五位下大嘗会、春宮御給)

寛和2年(986年) 7月22日:昇殿。8月13日:侍従。10月15日:左兵衛佐

寛和3年(987年) 正月7日:従五位上(皇太后宮御給)。9月4日:左近衛少将


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