藤原仲麻呂の乱
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^ 木本、2021年、P56-58.
^ 『続日本紀』宝亀六年五月己酉条甍伝。 ⇒朝日日本歴史人物事典 kotobank
^ 天平神護元年八月庚申条。岸俊男『藤原仲麻呂』吉川弘文館、391頁
^ 木本好信は橘奈良麻呂の乱について記した『続日本紀』天平宝字元年七月庚戌条「次傾皇太后宮而取鈴璽。即召右大臣、将使号令。然後廃帝。」に着目して、この乱の時には鈴印は孝謙天皇(当時)ではなく光明皇太后が保持していたと指摘し、藤原仲麻呂の乱の時に中宮院に鈴印があったのは皇太后の崩御後に淳仁天皇に直接引き渡されたからだと評価した。その上で、この事件は孝謙上皇が鈴印の正当な所持者である淳仁天皇から奪った事件であるため、本来であれば「(上皇の命令を受けた)山村王が奪い、(仲麻呂の命令を受けた)藤原訓儒麻呂が収めた」とされるべきところを、『続日本紀』天平宝字八年九月乙巳(9月11日)条は上皇側の詔勅を引用して「山村王が収め、藤原訓儒麻呂が奪った」と記していると指摘している(木本、2021年、P52-56.)。
^ 『続日本紀』天平宝字八年九月乙巳条「押勝又遣中衛将監矢田部老。被甲騎馬。且劫詔使。授刀紀船守亦射殺之。」 ⇒[1] この部分の解釈には異説があり、紀船守が谷田部老に射殺されたとする説もあるが、紀船守は坂上苅田麻呂らの功臣と共に即日行賞されて従七位下から従五位下に飛躍的に昇進し、その後も授刀衛の後身である近衛府において、宝亀6年(775年)に員外少将、宝亀9年に少将、天応元年(781年)に員外中将、延暦2年(783年)には中将、更に延暦4年には遂に大将、と順調に出世を続けており、この乱で戦死したとは考えられない。なお鈴印の行方については『続日本紀』等の史料には明記されていないが、状況的に孝謙上皇側が最終的に確保したと思われる。
^ ただし、木本好信の「私の仲麻呂像 ?反逆者像の払拭と政治観?」のように、正統な政府が淳仁天皇?仲麻呂側である以上、孝謙上皇が天皇と仲麻呂を駆逐しようとしたクーデターと解する論者もいる。
^ 「中臣氏系図」(『群書類従』巻第62所収)

参考文献

角田文衛 「恵美押勝の乱」 『律令国家の展開』 塙書房、1965年。

北山茂夫 「藤原恵美押勝の乱」 『日本古代政治史の研究』 岩波書店、1959年。

木本好信 「恵美押勝の乱」 『万葉時代の人びとと政争』 おうふう、2008年。

木本好信 「私の仲麻呂像 ?反逆者像の払拭と政治観?」『奈良平安時代史の諸問題』和泉書房、2021年。

中西康裕 「恵美仲麻呂の乱」 『続日本紀と奈良朝の政変』 吉川弘文館、2002年。

松尾光 「藤原仲麻呂の乱」 『天平の政治と争乱』 笠間書院、1995年。

宇治谷孟 『続日本紀 全現代語訳』中巻 講談社講談社学術文庫〉、1992年。

岸俊男 『藤原仲麻呂』 吉川弘文館、1969年。

木本好信 『藤原仲麻呂』 ミネルヴァ書房、2011年。

外部リンク

追跡 平城京最大のクーデター - NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス


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