藤井美帆
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するとすぐに合格の返事が届いた[7]。1996年、16歳の藤井は単身でフランスに渡航し、パリオペラ座バレエ学校に留学を果たした[1][7][5]

留学当初の藤井は「夢の場所に来た」感じが嬉しかったというが、すぐに寮母から「あなたは留学生だから、(パリ・オペラ座)バレエ団の入団試験は受けられない」と言われた[7]。その言葉に藤井は立腹したが、それでも心の隅にはパリ・オペラ座バレエ団に入団したいという思いがずっとあった[7][5]

入学当時はフランス語がよくわからない上にパリ・オペラ座のバレエ・メソッドの基礎ができていなかったため、練習についていくのが大変であった[3]。校長が名前を呼ぶ代わりに「日本!!」と言うなどつらいこともあったという[3]。それでも、バレエ学校では生活のリズムを作り上げることやフランス語の習得、さらに切磋琢磨していくことの重要さなどたくさんの学びがあり、後々まで彼女の財産となった[3]

バレエ学校では『二羽の鳩』で4人のジプシー役を踊ったり、『ヨンダーリング』(ジョン・ノイマイヤー振付)パリ・オペラ座初演で良い役に配役されたりしたことが貴重な思い出になった[3]。プティット・メール[注釈 4]は当時スジェ[注釈 5]の位置にいたオーレリー・デュポンに依頼した[3]

藤井が在学していた時期のバレエ学校では、外国人は生徒になれず「留学生」扱いだった[3][5]。在学2年目に短期契約オーディションが開かれ、留学生の立場だった彼女にも受験の許可が出た[3][5]。当時17歳の藤井はそのオーディションに合格し、1998年5月から7月にかけて『マノン』と『ドン・キホーテ』に出演を果たした[5]。その次に開かれたオーディションには合格できず、ベッシーに依頼してバレエ学校のプルミエール・ディヴィジョン(最終年度)に復学した[5]。プルミエール・ディヴィジョンで1年間学び、修了の時期に再び短期契約オーディションに合格して『白鳥の湖』に出演した[5]

バレエ学校卒業後の進路については、パリ・オペラ座バレエ団以外は考えられなかった[3][7][5]。1999年に同校を卒業した後は、パリ・オペラ座バレエ団と短期契約を結んだ[1][7]。短期契約団員(CDD)は1年ごとに契約を結ぶ制度で、さまざまな演目に出演するチャンスを与えられた[7]。ただし、代役としての出演が多かったため、当日にならないと出番があるかどうかわからないことが多かった[7]。その県境の中で藤井は本役のダンサーのリハーサルを見てからノートに記入するなどの努力を続け、振付を覚えていった[7]

藤井はミテキ・クドーの代役として『くるみ割り人形』の雪の精を踊ったり、2001年の「ジュヌ・ダンスーズ」という公演では『パ・ド・カトル』でソロの役を踊ったりするなど、出演のチャンスが与えられるたびに応え続けた[7]。やがて彼女の努力が報われる日が来た[7][5]

CDDがバレエ団の正式団員になれる唯一の機会は、毎年7月に行われる外部枠での入団試験であった[7]。藤井はこの試験を毎年受け続け、補欠オーディションなどを含めるとその回数は7回に達していた[5]。2002年の採用枠は男女各2名で、藤井はこの試験に合格してアジア人として初めてパリ・オペラ座バレエ団の正式団員となった[1][7][5]。恩師ベッシーに合格の報告をしたところ、「私は何もしていないわ。あなたが上手に踊った結果よ」と言われたが、藤井にとってそれは何よりもうれしい誉め言葉であった[7]
パリ・オペラ座バレエ団入団後

藤井にとって20代当初は順調な滑り出しであったが、その後は挫折と試行錯誤の時期が続いた[2]。パリ・オペラ座バレエ団の正式団員となり、幼少時からの夢が叶ったことによって「これから自分はどうしていきたいのか」がわからなくなった[2]。その悩みは「何を目指したいのか」「どう成長していけばいいのか」「上達した先に何を目指せばいいのか」と連鎖していき、彼女自身の表現では「まさに暗中模索の時代」であったという[2]


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