藤ノ木古墳
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ベニバナは遺物中の赤色の繊維から検出されているが、染色とともに防腐の意味合いもあったと推定されている。埋葬されていた遺体からは彼らが食べていた食物の痕跡がまったく検出されておらず、埋葬前に消化管を取り去っていた可能性が指摘されている。[8]
保存の歴史と問題

法隆寺に伝わる文書では、少なくとも平安時代末期ごろ以降は「ミササキ」「ミササキ山」と記され、古墳の南隣に堂宇が建てられ、幕末の安政元年(1854年)に火災で焼失するまで、法隆寺末寺に属する尼寺の宝積寺(ほうしゃくじ)となり、古墳は宝積寺とともに東側の西里集落の人々によって守られた[9]。江戸時代まで、藤ノ木古墳には陵堂と呼ばれる建物が設置されて墓守が置かれて管理されていた。石室内の古墳時代後期の土器に、江戸時代土師器の灯明皿が混じり、江戸時代末まで、被葬者を供養する祭祀が行われていたことが推定される。藤ノ木古墳の副葬品が未盗掘であったのはかなり厳重に守られていたからである[10]

発掘後は、国が所有し、町が管理をしている古墳で、斑鳩町には整備費用もなく、藤ノ木古墳の周りをトタン塀で囲い、草が生い茂る状態だった。その中、1995年11月28日に大阪の中学生3人が自転車で来て石室に侵入して、家形石棺の前面のふたの中央部を金づちと大型くぎで半月状に削り取り、その石棺の破片と後世の骨壺1つを持ち出す[11]「史跡藤ノ木古墳石棺き損事件」が発生した。斑鳩町と全国に対して、衝撃があり[12]、整備の重要さを認識させた。その後石棺の蓋は修復され、藤ノ木古墳は国費により補助されてトタン囲いは撤去され古墳公園化され整備されている[13]

2014年の頃には、住民団体や町内小中校・県立法隆寺国際高校生の手で、史跡藤ノ木古墳ボランティアとして古墳の草引きや清掃が実施されている[14]

文化財指定

古墳は国の史跡に指定されている。また、出土品一括は日本の古墳文化研究上価値の高いものとして、1988年に石棺外出土品が重要文化財に指定され、1991年に石棺内出土品が追加指定。2004年に国宝に指定された[15]。出土品は日本国(文化庁)所有で、奈良県立橿原考古学研究所附属博物館において保管・展示されている。国宝指定物件の明細は以下のとおり。
藤ノ木古墳出土品


金銅鞍金具 1背

鉄地金銅張鞍金具 残欠共 2背分

金属製品 一括(馬具類、挂甲小札、刀身、鉄鏃、鉄製模造品など)

土師器・須恵器(蓋3箇共)46箇(須恵器37箇(蓋3箇共)、土師器9箇)

(以上石棺外出土)

銅鏡 4面(獣帯鏡1、画文帯神獣鏡2、神獣鏡1)

金属製品 一括(金銅冠、金銅履、金銅製・銀製装飾品類、刀剣類など)

ガラス製品 一括(ガラス玉類)

附 繊維類 一括

(以上石棺内出土)

金銅鞍金具前輪(まえわ)
奈良県立橿原考古学研究所附属博物館展示(他画像も同様)。

金銅鞍金具後輪(しずわ)

棘葉形杏葉(きょくようがたぎょうよう)・歩揺付飾り金具

龍紋飾り金具・心葉形鏡板付轡(くつわ)・帯先金具

土器群

金銅製冠

金銅製履(くつ)

金銅製筒型品

脚注^ (前園、2006)、pp.4, 74 - 75
^藤ノ木古墳:国宝の馬具透かし彫り 3Dプリンターで複製
^ a b (前園、2006)、pp.19 - 21
^ a b 2009年9月14日朝日新聞「藤ノ木古墳被葬者 考古学者が新説<男2人>ではなく<男と女>?」
^ (前園、2006)、pp.9 - 10
^ (前園、2006)、pp.24 - 28
^ (前園、2006)、pp.29 - 41, 64, 69
^ (前園、2006)、pp.71 - 73
^ 2014年「斑鳩町歴史的風致維持向上計画」p.90、2022年5月26日閲覧
^ エンタメ!歴史博士-NIKKEI STYLE・日本経済新聞社と日経BP共同運営2020年9月18日閲覧
^ 破片と骨壺は、事件直後の各新聞報道
^斑鳩町HP「史跡藤ノ木古墳」2020年9月18日閲覧
^ 藤田友治『前方後円墳 - その起源を解明する』、ミネルヴァ書房、2000年 pp.355-356、379
^ 2014年「斑鳩町歴史的風致維持向上計画」pp.141-142、147、2022年5月26日閲覧
^ 昭和63年6月6日文部省告示第77号、平成3年6月21日文部省告示第83号、および平成16年6月8日文部科学省告示第109号


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