薬師寺
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これにより、1976年(昭和51年)に金堂が再建されたのを始め、1981年(昭和56年)に西塔、1984年(昭和59年)に中門、1995年平成7年)に東西回廊の一部、2003年平成15年)に大講堂、2017年(平成29年)には食堂(じきどう)が再建され、復興事業はほぼ最終段階を迎えた[2]

2017年(平成29年)5月24日に龍谷大学と、こうした文化財の保護・活動のほか、仏教についての研究・教育、僧の人材育成などで連携する協定を結んでいる[3]

「薬師寺まほろば塾」を開いている[4]
移建・非移建論争

平城京の薬師寺にある東塔および本尊薬師三尊像が飛鳥の本薬師寺から移されたものか、平城京で新たにつくられたものかについての論争が明治時代以来ある。21世紀の現在、東塔は平城京での新築とするのがほぼ通説となっているが、論争は完全に決着したわけではない。

11世紀成立の『薬師寺縁起』に引用される奈良時代の『流記資財帳』に「薬師寺には塔が4基あり、うち2基は本寺にある」という趣旨の記載があり、ある時期までは平城京と飛鳥の両薬師寺にそれぞれ2基の塔があったと解釈されることから、足立康町田甲一らはこれを非移建説の根拠の1つとしている。現存する東塔に、他所から解体移築した痕跡の見られないことからも[5]、東塔については『扶桑略記』の記述どおり、平城京移転後の天平2年(730年)新築と見る説が通説となっている[6]。ただし、平城薬師寺の境内からは本薬師寺から出土するのと同様の古い様式のも出土しており、西塔は飛鳥からの移築だったとする説もある[7]

発掘調査の結果、平城薬師寺の廻廊は当初単廊(柱が2列)として計画されたものが、途中で複廊(柱が3列、通路が2列)に設計変更されたことが判明している。このことから、当初は本薬師寺の建物を一部移築しようとしていたものを、途中で計画変更したのではないかとする説もある。

金堂本尊薬師三尊像については、既述の「持統天皇2年(688年)、薬師寺にて無遮大会(かぎりなきおがみ)が行われた」との『書紀』の記述を重視し、この年までには造立されて、後に平城薬師寺に移されたとする説がある。一方、主に様式や鋳造技法の面から平城京移転後の新造とする説もあり、決着はついていない。
近代・現代

1934年(昭和9年)9月21日、室戸台風の暴風雨により鐘楼が倒壊、三重の東塔が大きな被害を受ける[8]
東塔東塔薬師寺東塔の?銘東塔礎石(解体修理中の所見、北西から見る、2015年2月28日撮影)中央の平たい石が心礎、その周囲の4つが四天柱、その外側列が側柱、最も外側の列が裳階柱の礎石。

国宝。現在寺に残る建築のうち、奈良時代(天平年間)に遡る唯一のもの。総高34.1メートル(相輪含む)。日本に現存する江戸時代以前に作られた仏塔としては、東寺五重塔、興福寺五重塔、法観寺五重塔、醍醐寺五重塔、仁和寺五重塔に次ぎ、6番目の高さを誇る。屋根の出が6か所にあり、一見六重の塔に見えるが、下から1・3・5番目の屋根は裳階(もこし)であり、構造的には三重の塔である。仏塔建築としては他に類例のない意匠を示す。塔の先端部の相輪にある青銅製の水煙(すいえん)には飛天像が透かし彫りされており、奈良時代の高い工芸技術を現代に伝えている。

相輪の中心部の柱の最下部には「東塔檫銘」(とうとうさつめい、「さつ」の漢字は木偏に「察」)と称される銘文が刻まれており、薬師寺の創建と本尊造立の趣旨が漢文で記されている。塔の建築年代については飛鳥の本薬師寺から移築されたとする説(移建説)と、平城京で新たに建てられたとする説(非移建説)とがあったが、『扶桑略記』の記述のとおり、天平2年(730年)に平城京にて新築されたとする説が通説となっている。当初、東塔・西塔の初層内部には釈迦八相(釈迦の生涯の8つの主要な出来事)を表した塑像群が安置されていたが、現在は塑像の断片や木心が別途保管されるのみである。

本塔は、建築様式の点では、飛鳥様式の法隆寺五重塔や法起寺三重塔よりは進んだ形式を取り入れつつ、當麻寺東塔(奈良時代末期)や醍醐寺五重塔(平安時代初期)ほどには進んでいない、過渡期的様相を示している。柱上の組物に着目すると、雲肘木と雲斗(くもと)を用いた飛鳥様式の塔と異なり、薬師寺東塔の組物は後世の仏堂や仏塔と同様の肘木と斗(ます)を用い、壁面から3段に持ち出した三手先(みてさき)である。二手目の肘木と斗の上に尾垂木が掛かり、尾垂木の先端近くに三手目の斗が乗る。垂木は地垂木と飛檐垂木(ひえんたるき)からなる二軒(ふたのき)で、地垂木を円形断面、飛檐垂木を角形断面とした、「地円飛角」と呼ばれる形式である。このように、組物を三手先とする点、垂木を二軒とする点は飛鳥様式より進んだ要素である。一方で、支輪(壁面と軒裏を斜めに繋ぐ材)を用いず、軒天井を張ること、二手目の肘木は先端に1個の斗しか乗らないこと(後世の塔では2個の斗が乗る)、丸桁(がぎょう、垂木を支える軒桁のうち最も外側のもの)の断面を円形でなく方形とすること、鬼斗(隅肘木上に用いる特殊形状の斗)を用いないことなどは、後世の塔とは異なる、古い要素である。奈良時代末期建立の當麻寺東塔は、支輪と鬼斗を用い、丸桁は円形断面となり、二手目の肘木には2つの斗が乗っている。一方、海龍王寺五重小塔は、支輪と鬼斗は用いないが、丸桁は円形断面となり、二手目の肘木には2つの斗が乗るなど、薬師寺東塔と當麻寺東塔との過渡期的な形式をもっている。このほか薬師寺東塔の建築様式の特色としては、尾垂木が直線形であり、先端を垂直方向に断ち切っていること、三手目の斗と丸桁の間に実肘木を用いないこと、高欄の架木(ほこぎ)や平桁に反りがなく、かつ、これらの両端を垂直に断ち切っていることなどが挙げられる[9]

骨組み部分は鉄ので接続されていたが、各階の間などでは釘は用いられず木組みだけで構成されていた。解体修理にあたり、9割の木材は再利用され、残りは補修または新材を用いた[10]基壇は後世改修されているが、2009年から開始された東塔の解体修理工事の際に基壇の発掘調査が行われている。その結果、創建当初の版築による基壇が良好に遺存していることが確認された。また、裳階柱の礎石は明治時代に据え直された可能性があるものの、心礎、四天柱、側柱の礎石は当初位置から動いていないことも確認された[11]。基壇の下から和同開珎4枚が出土した[12]。創建当時の基壇は保護され、それを鉄筋コンクリートで覆って新たな土台とした。また心柱の内側は根元から2mほどが蟻害にあっており、不要な部分を取り除き新材で埋めた[13]。天井画の調査においては、木材の陰になった部分の顔料が非常に良い状態で残っていた[14]

前述のような特徴的な姿から、この塔を評してしばしば「凍れる音楽」という表現が用いられる。


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