薩摩藩
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もっとも、国立公文書館内閣文庫の『嘉永二年十月二日決・本家末家唱方』での幕府老中見解において『本家末家唱方之儀、領知内分遣し一家を立て候末家与唱、公儀から別段領知被下置被召出候家は、本家末家之筋者有之間敷』とあるため、江戸時代後期以降において垂水島津家の分家にあたる佐土原藩との「家本・家分かれ」と言えても支藩と認識されていたかは一考を要する。

幕末には長州藩とともに薩長同盟を締結し、明治維新の実現に指導的役割を果たした。明治新政府に西郷隆盛大久保利通黒田清隆松方正義森有礼ら有力な人材を多数輩出し、新政府の中軸となった。1871年明治4年)の廃藩置県により鹿児島県となった[1]
歴史
前史(中世から桃山時代)宮崎県都城市の祝吉御所門柱跡に建てられた石碑

島津家は、鎌倉時代初期に薩摩・大隅・日向3ヶ国の守護に任ぜられて以来、この地方を本拠地として来た守護大名戦国大名である。

島津家は、摂関家荘園島津荘の庄官に惟宗忠久(島津忠久)が任命された鎌倉時代初期に遡る。本荘は、大宰府の大宰大監平季基が、自己の管轄区域内にあった日向国諸縣郡島津荘の荒野を開いて墾田とし、この墾田を藤原道長の子で時の関白であった藤原頼通へ寄進することによって立荘されたものであった。当初この地は、同院とその周辺の土地で数十町に過ぎなかった。嶋津庄は、大淀川上流の盆地にあり、律令制下には日向国の嶋津駅の置かれた土地で、当地の交通上の枢要の地をなしていた。現在の宮崎県都城市とその付近に相当する。正応元年(1288年)の島津庄庄官等申状[注釈 2]に記載される、平季基が建立したという常楽寺は都城市横市にあり、その古棟札により万寿3年(1026年)建立と伝えられる神柱神社の旧所在地は、中ノ郷内梅北村であって、この地が当地諸文化生活の中心であったことがわかる。巨大な鎮西摂関家領の嶋津荘の原点と荘園支配の核とは、この都城盆地にあったのであり、今は顧り見られることの少ない宮崎県の山間に、島津の名の源泉があったことは、南九州平安時代末期から以後の時代を考えていく上でも、荘園を考えていく上でも、また島津氏発展を考えていく上でも忘れてはならない事実である[3]

忠久は御家人として薩摩・大隈・日向の守護及び島津荘の惣地頭に補任されたが、比企の乱に連座し、三国の守護職・地頭職ともに没収された。その後、忠久は薩摩において守護職・地頭職を回復し、嫡流・庶流ともに薩摩・大隈及び日向南部の三国に勢力を拡大・定着した。室町時代に、宗家は薩摩国守護から守護大名としての地位を確立したが、戦国時代にあっては、宗家は分裂・抗争し、国人化した庶家も離合集散を繰り返しながら、周辺の伊東氏などの有力国人との争いを繰り広げた。そのような中、分家伊作家を出自とする忠良が台頭し、子の貴久に宗家を継承させた。貴久の子である義久が家督を継ぐと、弟義弘歳久家久らを指揮し、悲願である薩摩・大隅・日向の三州を統一。その後も龍造寺氏大友氏といった有力戦国大名を打倒し、一時は九州のほとんどを手中に収めるなど戦国大名としての名を馳せた。

1587年天正15年)に豊臣秀吉九州征伐によって豊臣家に降伏し服属、大友・龍造寺を圧倒して得た九州の占領地は召し上げられたが、薩摩・大隅・日向の一部に跨がる旧領56万石の支配は認められた[注釈 3]

秀吉による文禄・慶長の役の間、留守を預かる武士の青少年の風紀が乱れたことがあり、これを心配した留守居役の家老たちが考案した青少年教育システムが郷中教育といわれている(詳細)。朝鮮の役後に5万石を加増で61万石となり、島津家は伊達と宇喜多を超え、豊臣政権下では徳川・上杉・毛利・前田に次ぐ五位の大大名となり、佐竹と合わせ「豊臣六大将」とも呼ばれる。
近世薩摩藩直営の薬園であった佐多旧薬園洋式軍備や藩営工場など集成館事業に関する建物が見える。(1872年)第13代将軍徳川家定の御台所となった天璋院

1600年慶長5年)の関ヶ原の戦いでは西軍につくが、徳川四天王の一人井伊直政の取りなしで本領を安堵され、島津義弘の三男・忠恒が当主と認められた。この時点をもって正式な薩摩藩成立と見なすのが通説である[5]

1609年(慶長14年)、琉球王国に出兵して服属(琉球侵攻)させ、琉球の石高11万石余(沖縄本島は8万石)[6]を加えられた。奄美群島は琉球と分離され、薩摩藩が大島代官、喜界島代官、徳之島代官、沖永良部代官を配置して直接支配した。沖縄本島以南は那覇に琉球在番奉行を派遣して琉球を管理したが、実際には琉球は大幅な自治権を行使していた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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