この項目では、日本の地方区分であった薩摩について説明しています。この名をとった戦艦については「薩摩 (戦艦)」をご覧ください。
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薩摩国
■-薩摩国
■-西海道
別称薩州(さっしゅう)
所属西海道
相当領域鹿児島県西部
諸元
国力中国
距離遠国
郡・郷数13郡35郷
国内主要施設
薩摩国府鹿児島県薩摩川内市
薩摩国分寺鹿児島県薩摩川内市(薩摩国分寺跡)
薩摩国分尼寺(推定)鹿児島県薩摩川内市
一宮新田神社(鹿児島県薩摩川内市)
枚聞神社(鹿児島県指宿市)
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薩摩国(さつまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属し、現在の鹿児島県の西部に属する。 『古事記』の国産み神話においては、筑紫島(九州)の4面に筑紫国、豊国、肥国、熊曽国が見える[1]。 古代の南九州は『古事記』『日本書紀』の「日向神話」と呼ばれる神話の舞台となった[2]。この中で、アマテラスの孫のニニギが高千穂に降臨し(天孫降臨)、子のホオリが兄・ホデリを懲らしめた旨とともに兄の子孫の隼人が今も天皇に仕える由来だと述べ(山幸彦と海幸彦)、ホオリの子・ウガヤフキアエズは初代天皇・カムヤマトイワレビコ(神武天皇)の父である旨を記している。のち、神武天皇は日向から東征に赴くこととなる(神武東征)。 現在、これらの日向神話は歴史的事実そのままとは考えられておらず、その由来には諸説がある。特に『古事記』『日本書紀』が成立するまで、すなわち7世紀後半から8世紀前半の南九州における対隼人の政治情勢との密接な関係が指摘される[2]。隼人が名を表すのは天武天皇の時代からで、7世紀末から8世紀前期に4回の反乱を起こしている[2]。そして天皇家による南九州における統治を正当化し、隼人が服属すべき理由を過去にさかのぼって説明するものと考えられている[3]。 5世紀の仁徳天皇の御代には隼人の長を改めて直としたとされる(『国造本紀』)。 7世紀中期以降に律令制の成立に伴って、現在の鹿児島県の本土部分と宮崎県を含む広域に、日向国が成立した[4]。 大宝2年(702年)8月1日に起こった薩摩・多?の叛乱を契機に[5]、現在の鹿児島県本土の西部が、10月3日までに唱更国(唱更 = はやひと[6]/はやと[7]/しょうこう[8])に分立したのが、薩摩国の始まりである[4]。(日向国から分離して設置される以前は、この地域は阿多(吾田) と呼ばれていた。) 唱更の更は、中国の漢代に兵役についている者を更卒と呼んだことに由来し、唱更は辺境の守備にあたることをいう[9]。 国名は、大宝4年(704年)に全国の国印を鋳造したときまでに薩麻国に改められた[10]。8世紀半ば以降の不明な時点に薩摩国に改称した。 7世紀末の段階で南九州に(全てではなく、飛び石的に)評が設置されていた。それは、文武天皇3年(699年)南九州や九州西部の島嶼部の人々が、覓国使(べっこくし)を侮辱するという事件が起こった時、衣評督である衣君県も加わっていた。
沿革
近世以降の沿革
「旧高旧領取調帳」の記載によると、明治初年時点では全域が鹿児島藩領であった。(307村・319,146石余)
伊佐郡(49村・51,340石余)、薩摩郡(29村・38,647石余)、日置郡(50村・46,562石余)、谿山郡(8村・12,577石余)、揖宿郡(11村・12,893石余)、頴娃郡(8村・10,875石余)、鹿児島郡(25村・27,368石余)、給黎郡(8村・9,634石余)、甑島郡(14村・3,508石余)、阿多郡(20村・18,211石余)、川辺郡(36村・30,444石余)、高城郡(11村・12,657石余)、出水郡(38村・44,424石余)