薩?正邦
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薩?と富井政章はともに京都仏学校で、レオン・デュリーのもとで学んでいたデュリー門下[4]でもあり、富井政章の東京法学校講師時代には薩?宅で同居していたこともあった[5]。
略歴
1856年(安政3年) - 現在の京都府京都市上京区今出川千本東入般舟院前町で石門心学を講ずる学者の家に生まれる。
1871年(明治4年) - 官立の京都仏学校に入学。レオン・デュリーに師事しフランス語を学ぶ。
1875年(明治8年) - 京都仏学校が廃止となり、デュリーの開成学校(現東京大学)への転任に従い上京。
1878年(明治11年) - 内務省社寺局長になった桜井能監の推薦で内務省勤務。
1879年(明治12年) - 東京法学社設立に加わる。ボアソナードに師事。
1880年(明治13年) - ボアソナードの推薦で司法省に転じ、元老院民法編纂局兼務。東京法学社開校。
1881年(明治14年) - 東京法学校主幹に就任。官職を辞して、東京法学校に専念。
1883年(明治16年) - 東京専門学校へ出講し法律学科で刑法を担当する[6]。
1884年(明治17年) - 富井政章の妹・富井マサと結婚。
1885年(明治18年) - 東京法学校の通信教育機関「中央法学会」を設立し、『中央法学会雑誌』を創刊。
1888年(明治21年) - 帝国大学で開催された第一回五大法律学校討論会で飯田宏作らとともに議長を務める[7]。
1890年(明治23年) - 第三高等中学校(現在の京都大学)法学部開設と同時に法学部助教授に就任。
1891年(明治24年) - 第三高等中学校法学部教授に就任。民法・刑法・刑事訴訟法を担当。
1892年(明治25年) - 第三高等中学校壬辰会初代理事。
1894年(明治27年) - 第三高等学校開校に伴い、第三高等学校法学部教授に就任。民法・刑法・実地演習を担当。
1897年(明治30年) - 在官中、満40歳で病没。京都・大徳寺内の塔頭芳春院に眠る。その後墓所は茨城・阿弥陀寺(茨城県常総市)に移る。
栄典
1891年(明治24年)12月21日 - 従七位[8]
著書
高木豊三と共著『刑法一覧』時習社・博聞社、1880年
『刑法弁議上巻』薩?正邦、1882年
『財産法講義第一巻』薩?氏蔵版、1884年(東京法学校教課用、禁発売)
『財産法講義第二巻』薩?氏蔵版、1885年(東京法学校教課用、禁発売)
『財産法講義』中央法学会、1887年(東京法学校・中央法学会のほか、明治法律学校の教科書にもなった[9])
『民事証拠法要論上・下巻』時習社、1887年
『大日本帝国憲法精義』時習社・岡島宝文館、1889年
『大日本帝国憲法附属法精義』時習社・岡島宝文館、1889年
『日本刑法講義』時習社、1889年
『各国比較行政法講義』中央法学会、1889年
『日本民法通解』時習社、1889年
『刑法原理講義』日本同盟法学会、1893年
編書ボアソナードやアッペールの講義を薩?正邦が筆記・編集して出版したもの。
アッペール講義『佛蘭西行政法講義筆記』宇川盛三郎
・橋本胖三郎訳、東京法学社、1880年
アッペール講義『仏国行政法講義筆記』宇川盛三郎・橋本胖三郎訳、東京法学社蔵版、1881年
ボアソナード講義『仏国民法売買篇講義』堀田正忠訳、博聞社、1883年
翻訳書
ナミュ?ル(Parfait Namur)著 『法学通論』時習社、1886年[10]
脚注[脚注の使い方]^ 篠田正作『知識進歩立志之友』中村芳松、1892年
^ 「某氏君ノ才ヲ愛シ資ヲ助ケ」たと記されている(『法学協会雑誌』15巻8号859頁)が、「某氏」については不明である。
^ 安藤勝一郎編『三高等学校弁論部部史』三高等学校弁論部、1935年、8頁
^ 高木豊三や本野一郎も同じく京都仏学校で学んでいたデュリー門下であり、この薩?の人脈が、後々東京法学校や和仏法律学校を支えていくことになる。
^ 法政大学イノベーション・マネジメント研究センター・洞口治夫編の下掲書
^ 『早稲田大学百年史 1巻』P1035
^ 各校の生徒・校友、千五・六百名が参加。『五大法律学校連合討論会筆記一回二回』博文社、1888年、187頁。『東京法学校雑誌』3号、1888年3月25日、49-50頁。
^ 『官報』第2545号、「叙任及辞令」1891年12月22日。
^ 『毎日新聞』1887年5月15日、4面。
^ 薩?が翻訳した原稿259枚を河地金代に売却して出版されたもの(法政大学イノベーション・マネジメント研究センター・洞口治夫編・下掲書)。
参考文献法政大学イノベーション・マネジメント研究センター・洞口治夫編『大学教育のイノベーター?法政大学創立者・薩?正邦と明治日本の産業社会?』書籍工房早山、2008年.(ISBN 978-4-88611-510-2)
関連項目法政大学市ヶ谷キャンパスの外濠校舎内に大収容アリーナである「薩?ホール」は、薩?正邦の名から取ったものである。
法政大学の人物一覧
外部リンク
東京法学社の設立者たち 法政大学
表
話
編
歴
法政大学総長(東京法学校主幹:1881年 - 1888年)
東京法学校長
主幹 薩?正邦 1881-1888
河津祐之 1888-1889
東京仏学校長
心得 古市公威 1886-1887
大島誠治 1887-1889
和仏法律学校長
箕作麟祥 1889-1897
心得 飯田宏作 1897-1898
横田国臣 1898
梅謙次郎 1899-1900
富井政章 1900-1902
梅謙次郎 1902-1903
(旧制専門学校)法政大学長
総理 梅謙次郎 1903-1910
専任理事 古賀廉造 1910-1913
松室致 1913-1920
法政大学総長
※1920-1934学長
初代 松室致 1920-1931
事務取扱/第2代 秋山雅之介 1931-1933/1933-1934
第3代 水町袈裟六 1934
第4代 小山松吉 1934-1943
第5代 竹内賀久治 1943-1946
第6-7代 野上豊一郎 1946-1950
事務取扱 錦織理一郎 1950
第8代 大内兵衛 1950-1959
第9代 有沢広巳 1959-1962
代行/第10代 谷川徹三 1962-1963/1963-1965
代行 小田切秀雄 1965-1966
代行 菰淵鎮雄 1966-1967
第11代 渡邉佐平 1967-1968
代行 菰淵鎮雄 1968
第12代 中村哲 1968-1983
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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