薩土盟約
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^ a b “『「薩土討幕の密約」を結び、土佐藩の軍備を近代化した板垣退助。明治の自由民権運動以前の幕末の活躍とは?』”. デジスタイル京都 (2023年1月27日). 2023年1月30日閲覧。
^ 翌年正月3日鳥羽・伏見の戦いが始まると、板垣らは山内容堂による制止を無視して「薩土密約」に基づき、独断で戦闘に参加。その後の戊辰戦争においても、迅衝隊・胡蝶隊などを編成して参戦するなど、結果的には「薩土討幕の密約」は発効され、戦後に維新政府によって、伏見における初期参戦が評価されて賞典を賜う結果となった。
^ 『新納立夫日記』。会議の出席者は関山糺(大目付兼家老事務取扱)、西郷、小松、大久保、田尻務、蓑田伝兵衛、吉井(以上側役)、内田政風、新納立夫(以上留守居)。芳2002、181頁。家近1995、195頁など。
^ a b なお、「柏村日記」(『修訂防長回天史』349-350頁)に残る8月14日時点における西郷の発言「弊藩に於て討幕は不仕(つかまつらず)」については、当時の薩摩の武力倒幕路線と矛盾するため、様々な憶測が可能であり研究者によって解釈が異なる。文字通りこの時期にはまだ薩摩藩内で倒幕路線が確定していなかったとする説(実際に国元では反対論が盛んであった)、「討幕」の対象が江戸の幕府本体ではなく徳川慶喜(および徳川宗家)のみであるとする説、対象は一会桑(慶喜とそれに与同する松平容保(会津藩主、京都守護職)・松平定敬桑名藩主、京都所司代))の在京兵力だとする説などがある。高橋秀直はこれら諸説をまとめた上で、西郷の上記主張は、薩摩が幕府打倒の戦の口火を切ることはできるが、全面戦争を行うには薩摩単独では不可能であると宣言したとの解釈が妥当であろうとしている(高橋2007、373-374頁註3)。
^ 蓑田伝兵衛宛大久保書翰(『大久保利通文書 一』475-477頁)。
^ 芳2002、182頁
^ 『西郷隆盛全集』2、225-226頁。佐々木2004、365頁。
^ 青山2008、257-258頁。
^ 「船中八策」の真偽性および新規性については近年疑義が唱えられており、龍馬以前の同様な主張も発見されている。詳細については船中八策を参照。
^ 『板垣退助君戊辰戦略』上田仙吉編、明治15年刊(一般社団法人板垣退助先生顕彰会再編復刻)
^ 『寺村左膳日記』。青山2006、99頁。
^ 『寺村左膳日記』慶応三年六月十八日条「西郷吉之助之論は、彼是議論するも益なし、早々兵端を開き幕府を討たんとする見込みなり」。青山2006、100頁。
^ 青山2006、100頁。
^ 『寺村左膳日記』「大条理を以、懇懇説き終り(中略)薩之三人、格別異論なし」。佐々木2004、366頁。
^ 『保古飛呂比』「少々異論、尤モ大体ハ同意ナレ共、文字上等ナリ」。佐々木2004、367頁。
^ 『鹿児島県史料 玉里島津家史料補遺 南部弥八郎報告書二』742頁「此策断然相行れ候得は実に皇國挽回之基本とも相成可申」。佐々木2004、367頁。
^ 『保古飛呂比』二、404-405頁。
^ 青山2006、102-107頁。
^ 佐々木2004、370-371頁。
^ 朝廷の制度とりわけ摂関などの人事や職掌に関しては文久年間以来島津久光および薩摩藩が繰り返し主張してきたものであることから、第6条は薩摩側の主張で入れられたものと考えられる。佐々木2004、372-373頁。
^ a b c 家近1995、196-201頁。
^ 高橋2007、375頁註4など。
^ 坂本龍馬宛木戸書簡。8月2日付、9月4日付。
^ 『保古飛呂比』二、452頁、506-507頁。
^ 坂野2008第一章「幕末議会論 土佐要因と薩摩要因」。
^ 同年9月大久保利通宛吉井友実書翰(『大久保利通伝』1)。尾佐竹猛『維新前後に於ける立憲思想』(1925年、邦光堂)80頁。
^ 坂野2007、21-22頁。
^ 坂野2007、40-46頁、48-58頁。
^ 佐々木隆『藩閥政府と立憲政治』(1992年、吉川弘文館)1頁。
^ 尾佐竹猛前掲書。坂野2008序章、第一章「幕末議会論 土佐要因と薩摩要因」、第二章「幕末議会論と大阪会議」。
^ 幕末に倒幕論派であった板垣は明治5年(1872年)頃に議会論者になっていた。稲田正次『明治憲法成立史』(1962年、有斐閣)111頁。坂野2008、18-24頁。
^ 『修訂防長回天史』1155頁。
^ 『寺村左膳日記』同日条。青山2006、107頁。
^ 『保古飛呂比』二、2433頁。
「大政返上等の周旋し候に、後楯に兵を用ひ候事は、脅迫手段にて不本意千万なり、天下の為に公平心を以て周旋するに、何ぞ兵を後楯とせんや、出兵無用」。
^ 松浦2008、151頁
^ なお、イカルス号事件の真犯人は福岡藩士の金子才吉であり、事件の直後に藩当局に自首した直後に自害していたが、これが判明したのは1年以上後の明治元年(1868年)10月だった。
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