薔薇の名前
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しかし、最後の一行の詩句が、非常に多義的な意味を持つことから、様々な解釈が行われている。

ラテン語の詩句は、形式的に直訳すると、「以前の薔薇は名に留まり、私たちは裸の名を手にする」というような意味であるが、ベルナール自身の詩のなかで象徴的な意味を持っており、さらに小説のなかでも、多義的象徴的意味を持っている(この詩は、ヨハン・ホイジンガ中世の秋』に引用されており、その詩の全体がどういうものかは、『中世の秋』(日本語版は堀越孝一訳で、新版・中公クラシックス全2冊)で、知ることができる)。
「薔薇の名前」と普遍論争

エーコの小説のなかでは述べられていないが、フランシスコ会教皇庁の争いは、フランシスコ会総長チェゼーナのミケーレ他幹部が、論争に決着を付けるためアヴィニョンを訪れるが、教皇庁側の対応に疑問を抱いた彼らが、一夜にしてアヴィニョンを逐電し、ドイツ(当時の神聖ローマ帝国領)へと逃れるに及んで最終的に決裂した。このとき、逃走した者のなかには、当時の普遍論争において、唯名論の側の立場に立つ筆頭の論客として知られた、オッカムのウィリアムも含まれていた(この後、教皇庁はミケーレを解任し、フランシスコ会に新しい総長を選出させた結果、二人の総長が並立するという事態になる)。

オッカムのウィリアムは、論理思考における「オッカムの剃刀」で良く知られているように、近代合理的な思考、経験的科学的な認識論を指向していた。従って、オッカムのウィリアムが、またバスカヴィルのウィリアムのモデルだとも言える。

普遍論争とは中世に存在した、実在するのは何かという哲学議論で、簡単には、事物(レース)について、その類観念つまり類のエイドス(形相)が実在しているというのが、「実念論」の立場で、これに対し、オッカムのウィリアムなど「唯名論」の立場では、実在するのは個々の事物(レース)であって、類の普遍観念つまりエイドスは、「名(nomen)」に過ぎないという考えであった。

この事物の類観念と個々の事物の関係を、「薔薇(rosa)」という事物または類観念で考えると、「その薔薇のその名前(Il Nome della Rosa)」とは、「その名前」が普遍観念で実在か、「その薔薇」こそが具体的事物で実在で、「その名前」は形式に過ぎないのか。オッカムは後者の立場であり、したがってバスカヴィルのウィリアムも唯名論の立場で、後者である。しかしメルクのアドソは晩年に至って、師の教えに反し、「その名前」が実在である、つまり実念論の立場に転向した趣旨が小説の「最後の頁」で示唆されている。

/stat rosa pristina nomine, nomina nuda tenemus./ という小説最後のラテン語の詩句が、ここで中世の普遍論争の文脈に置かれることになる。また、時代錯誤であるが、作者エーコは、バスカヴィルのウィリアムに20世紀分析哲学の思想に類似した内容を語らせており、ヴィトゲンシュタインの言葉の引用に似た表現が登場する。分析哲学は、中世普遍論争の問題を20世紀において継承した思想である。

エーコの小説の「枠」を外した事実上の「始まり」の部分は、「初めに(原初に)、言葉があった( In principio erat verbum.)」(『ヨハネ福音書』1章1節)であり、「最後」は、筆写室に手稿を残してアドソが部屋を後にするという説明であり、そして、最後の最後に、上のラテン語の詩句が置かれている。「原初の薔薇(rosa pristina)」とは何で、「裸の名前(nomina nuda)」とは何か、作品は、言葉実在の関係をめぐり、記号と世界の秩序の関係をめぐり、壮大な「薔薇の名前」の物語を築いている。
関連文献

ウンベルト・エーコ 『中世美学史 「バラの名前」の歴史的・思想的背景』 谷口伊兵衛訳、而立書房

ウンベルト・エーコ 『「バラの名前」覚書』 谷口勇(谷口伊兵衛)訳、而立書房-※以下も同

エーコほか 『「バラの名前」探求』

クラウス・イッケルト、ウルズラ・シック 『バラの名前 百科』

アデル・J・ハフト 『バラの名前 便覧』

ロリアーノ・マッキアヴェッリ 『バラの名前 後日譚』 谷口勇ほか訳

ニルダ・グリエルミ 『「バラの名前」とボルヘス エコ、
ボルヘスと八岐の園』

コスタンティーノ・マルモ 『ウンベルト・エコ作『バラの名前』原典批判』文化書房博文社 

和田忠彦『ウンベルト・エーコ 薔薇の名前 笑いは知の限界を暴く 100分de名著NHK出版。放送テキスト(2018年9月)

図師宣忠『エーコ『薔薇の名前』 迷宮をめぐる〈はてしない物語〉』慶應義塾大学出版会「世界を読み解く一冊の本」(2021年4月)

関連項目ウィキメディア・コモンズには、薔薇の名前に関連するメディアがあります。

アヴィニョン捕囚

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