両親は正式な婚姻を機に台南に戻ったため、父の地元で台湾省立台南師範学院付属小学
(中国語版)[5]、および台南市立後甲国民中学(中国語版)に通学した[5]。母とは英語、父や幼少時の友人とは台湾語(?南語)、小中学校では中国語(台湾華語)で会話をするようになった[5]。高校は当初は地元の省立台南女中(現・国立台南女子高級中学)を目指すも考えを改め[8]、母の祖国米国のニュージャージー州モントクレア・ハイスクール(英語版)(Montclair High School)に進学[5]。昼食や放課後だけではなく授業も白人と黒人、アジア系でグループが明確に分かれていたことに苦痛を感じていた[5]。その後、オーバリン大学東アジア研究学科(East Asian studies)に進学し、学士課程を修了[5]。オーバリン大学では東アジア研究学科を専攻。セクシャリティ、人種、階級、社会正義などの議題を好んでいた[5]。課外でもフェミニズムなどのサークル活動に参加。最も親しい友人は高校時代は中南米系移民二世の学生で、大学ではブラジル、インド、バングラディシュなどからの留学生とだった[5]。
ネイティブである英中台3言語のほか、スペイン語や[9]、米国留学中に学んだ日本語などを自然に使い分けることができる[5]。
父親は台独傾向をもつ神学院に属していたことから「本土意識」は高かったが、独立運動には参加せず、後方から支援する程度だった[5]。父から美琴への影響はさほど大きくなく、美琴が大学の図書館で史明の『台湾人四百年史』などの出版物を読むことが本人の自我に影響を与えた[5]。1991年の3年時、呂秀蓮の著書を読んで感動した美琴は、呂本人に手紙を出した[5]。呂は返信で美琴に台湾に戻るよう促したため、美琴は休学を届け出て呂の助手と民主進歩党中央執行部でのボランティアを務めた[5]。卒業後はコロンビア大学政治学科(Political science)に進学、在学中にニュースクール大学留学中だった陳文茜と親交を深め、文茜の推薦で党内での仕事を始めた[5]。その後、コロンビア大でマスター(修士)を修了した[10]。
台湾語の母語教育も重視している[11]。父によると、「美琴はどうみても(外見上は米台)混血だが、『純』台湾人に比べても台湾人としての意識が低いということはない。在米期間中に使っていた英語名は『美琴』の台湾語読み『Bi-khim』にしていたほどだから」と明かしている[12]。 訪米した党員との接触が増え、1995年3月より民進党駐米代表処の執行長に就任。1996年に党主席となった許信良は若手の起用を推進したため文茜の推薦で国際事務部副主任に抜擢された[5]。当時の主任は出勤が少なかったことから実質的に美琴が業務を肩代わりするようになる。1997年からは正式に国際事務部主任に就任。26歳で当時党内最年少の幹部職だった。この時期より美琴の対外知名度と信用は高まり人脈を築いていく。次期総統選候補となった陳水扁にも見いだされ、陳が2000年中華民国総統選挙に勝利すると、当時最年少の中華民国総統府顧問となった[5]。英語に堪能なため、秘書役として陳の随行通訳もこなした。 台湾女子体育運動協会の理事長や[13]、中華オリンピック委員会
民進党入り
スポーツ行政
対中関係立法院での香港支持共同会見(2014年)
陳水扁政権で行政院大陸委員会諮詢委員を務めていた[5]。2014年香港反政府デモ(雨傘運動)では党首の蔡英文や長老の謝長廷らとともにデモ側の市民を支持する声明を出していた[15]。2019年-2020年香港民主化デモについても韓国・ソウルで開かれていたアジア・リベラル民主評議会で香港の元立法会議員単仲偕(中国語版)と共同で中国共産党政府非難声明と台湾市民に対して警戒を呼びかけていた[16]。 2009年5月、党国際部主任として日本の福岡で開催された国際会議に出席すると、九州国立博物館での宴席で名刺交換を交わした直後に美琴が民進党関係者と知った在福岡中華人民共和国総領事の武樹民
対駐日中国領事
宴席が終わると中国の学者でさえ武の発言に対し謝罪を表明している[20]。 2008年より米国のシンクタンク「プロジェクト2049研究所 蔡英文は2010年新北市長選挙出馬に伴う戸籍変更で永和市の美琴の住居を居住地として登録している[22]。 また、2011年に訪台した自由民主党の安倍晋三・菅義偉との面会にも党シンクタンク幹部として美琴が同席し[23][24]、2015年の訪米にも同行したことから公私にわたり信頼関係を築いていることを窺わせている[25]。
対米関係
蔡英文との関係