?経国
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台湾に撤退後、?介石は?経国に、特務の元締めとの政治工作部門の掌握といういわば体制の汚い部分を任せた。ソ連で軍の政治工作部門について学び、?介石に最も信頼されている?経国にとって適任ではあったが、政治家として大成するには特務の元締めという負の遺産を清算せねばならないという課題を背負うことになった。?経国は特務の元締めとして、台湾に根を張りつつあった共産党組織の壊滅に成功するが、実際の共産党関係者をはるかに上回る冤罪被害者を生み出した。軍の政治工作部門を掌握した?経国は軍の人事権を確保し、特務、軍の政治工作部門を活用して政敵を追放ないし抑圧することにも成功し、主として政治の裏側で強大な権力を握る。

台湾に撤退した中華民国政府は、あくまで自らが中国の正統政権であって中国共産党と中華人民共和国反乱勢力であると見なしており、台湾はあくまで仮住まいであり、中国大陸に戻ることを前提としていた。そのため、台湾に?介石とともにやって来た外省人が少数派であるにもかかわらず、多数派の本省人の上に立って支配する統治形態が確立された。この体制はアメリカからの支持、援助を受け1960年代までは大きな波乱もなく安定していた。しかし、?介石の衰えが目立つようになった1960年代末以降、中国大陸復帰の非現実性が明らかになり、アメリカなど諸外国の支持も減退し、中華民国は大きな正統性の危機に直面する。?経国はこのような危機が進行する中、不足していた政治の表舞台でのキャリアを積みあげ、衰えた?介石に代わり事実上の国の最高指導者となる。

1972年に行政院長となった?経国は対外的な正統性の危機と、それに伴う移民資本移動といった形での海外逃避に傾きがちとなった状況を克服するため、経済建設のための大規模な投資、十大建設を断行する。十大建設は成功を収め、危機の中での経済建設の成功は台湾社会に団結と達成感をもたらし、さらに政治的孤立とは対照的に、台湾は国際経済において確固たる地位を占めた。?経国はいわばよそ者の政権であった中華民国を、徐々に台湾化させる方向へとシフトする。本省人の俊英の抜擢、度重なる地方視察が?経国が取った中華民国台湾化の手法であった。本省人の俊英の抜擢で出世頭となったのが、後に?経国の後継者となる李登輝であった。

1975年4月、父の?介石が没すると自ら国民党主席となり、1978年には中華民国第3代(第6期)総統に就任した。総統就任前後から、?経国は経済成長などで自信を付けつつあった民衆運動に悩まされるようになった。1979年に発生した美麗島事件は弾圧したが、反体制派はすぐに復活して活動を活発化させていった。この頃からアメリカからの人権問題についての介入、そしてケ小平が実権を握り、文化大革命から決別して近代化路線を進み始めた中華人民共和国からの硬軟取り混ぜた攻勢に苦慮するようになる。

結局、最晩年になって?経国は自らが依拠してきた権威主義的体制の限界を悟り、政党結成を容認、長年台湾を抑圧してきた戒厳令を解除するなど民主化、自由化への大きな一歩を踏み出し、権力の世襲を明確に否定した。そして対中国大陸関係では中国大陸との間接貿易の許可、大陸親族訪問解禁、密使を通じた大陸との交渉と、閉じられた関係から開かれた関係へと移行するなどの決断を相次いで下した。1980年代、重い糖尿病に冒されていた?経国にとってこれらの決断はまさに命を削るものであり、1988年1月13日に77歳で没した。
幼年・少年時代
誕生誕生直後の?経国の家族、右より父?介石、祖母王采玉に抱かれた?経国、母毛福梅。

?経国は1910年4月27日(旧暦3月18日)、浙江省奉化県渓口鎮に、?介石、毛福梅夫婦の長男として生まれた。父の?介石は22歳、母の毛福梅は27歳であった[1]

?一族は代々食料酒類を商う商人であったが、太平天国の乱に巻き込まれていったん家財を失ってしまう。しかし?経国の曽祖父にあたる?斯千は商才があり、家業を立て直した。?斯千の死後、家業は?経国の祖父である?肇聡が継いだ。?肇聡も有能な商人であり、公益事業にも熱心な人物であった。?肇聡は三度の婚姻歴があり、最初の妻、そして二人目の妻とも死別した後、王采玉を三度目の妻として迎えた[2]

?肇聡と王采玉の間には二男一女が生まれた。第一子・長男が?介石である。しかし?肇聡は?介石が9歳の時に没する。?介石の異母兄に?錫候がいたが、父の後妻に当たる王采玉や?介石ら異母兄弟の面倒を見ようとはしなかった。一家の大黒柱を失った王采玉や?介石らは、清末の混乱の中、腐敗した官吏などにおびやかされる生活が続いた。?介石が数え15歳の時、縁談が舞い込んだ。格式が劣る家は早めに結婚をするのがよいとの周囲からの勧めに従い、1901年、?介石は雑貨商の娘であった毛福梅と婚姻する。毛福梅は当時の中国の田舎ではどこにでもいたような、夫に仕え、姑に孝行を尽くすタイプの女性であった。しかし若き夫・?介石は破天荒な人物であった。結婚当時10代半ばの腕白少年であった?介石は、やがて家を離れて保定陸軍軍官学校で軍事について学びだしたと思いきや、さらに日本へと渡り軍事についての研鑽を深めていった。その結果、?介石は渓口鎮にあまり戻らないようになっていった[3]

?介石は1908年東京振武学校に入学した。振武学校在学中の1910年4月、?介石に息子が誕生した。父親が日本滞在中に生まれたこともあって、?経国の血筋について臆測が流れたこともあったが、?介石は日本留学中、身内の慶事などの際にはしばしば帰郷しており、取るに足らない噂であるとされている。生まれた男の子には建豊という幼名がつけられ、経国の大業、経国済世などという言葉から号を経国と名づけられた[4][5][6]。そして?介石は振武学校卒業後、1910年12月からは新潟県高田市(現・上越市高田)にある陸軍第十三師団野戦砲兵第十九連隊付に二等兵として入隊した[7]

日本留学中の父・?介石が?経国と初めて対面したのは、誕生後1年あまりが経過した1911年の夏、休暇で帰郷した際のことであった。?介石は日本留学中に中国革命同盟会に入会し、リーダーである孫文の知遇も得ていた。?介石は陸軍第十三師団野戦砲兵第十九連隊で砲兵伍長まで昇進したが、故国中国で1911年10月10日辛亥革命武昌起義)が勃発したことを聞きつけると連隊を抜け出して帰国した。こうして?介石は中国革命の渦中に飛び込んでいくことになる[8][7]

?介石が国事に奔走していくようになる中、妻・毛福梅との関係はさらに遠くなった。毛福梅は母・王采玉に勧められて結婚した女性であり、?介石は次第にこの田舎育ちの妻がうとましく感じられるようになっていった。?介石の毛福梅に対する態度もひどいもので、殴る蹴るはもちろんのこと、二階から突き落としたことも何度かあったと伝えられている。息子である?経国はむろん母のことを慕っていたが、このような家庭環境は?経国に影響を与えたと考えられる[9][8]

1912年、?介石は姚冶誠を妾とし、姚冶誠を連れて渓口鎮に帰郷する。?介石は相変わらず渓口鎮に戻ることは少なく、上海で買った西洋式の玩具をよく?経国のために送り届けてきた。1916年、?経国に弟・?緯国ができた。?緯国は当時?介石と親友であった戴季陶日本人看護師の重松金子との間の子であったが、戴季陶の家庭の事情で認知ができないのを見た?介石が、自分の息子として養育することにした。そして?緯国は姚冶誠が養母として養育するようになった[10][11]
伝統的な教育を受ける

1916年、?経国は故郷、渓口鎮の武山学校に入学し、翌1917年からは父・?介石も教えた顧清廉から学問を学ぶようになった。顧清廉はまだ幼い?経国の朗読を評価した。そして?経国に書字、読解能力がある程度ついたと判断した?介石は、1920年から手紙で息子に対する訓示を行うようになる。当時、?介石は孫文を補佐しつつ中国各地を飛び回っていた[12]

1920年、まだ10歳になったばかりの?経国に、?介石は注解付きの『説文解字』を送りつけ、「この本から毎日10文字ずつ覚えれば、3年後には読み終え、生涯おまえの助けになるだろう。勉強はまず先生の話をよく聞き、新しい文字をひとつ習ったらその意味をよく知ることである」と指示した。?介石は翌年には『説文提要』を読み終え、覚えたかどうかを確認しつつ、爾雅を読むように指示している。このような?介石の指示は、もちろん息子の教育に力を注いだことを意味しているが、?介石自身が受けた中国の伝統的な教育方針に基づいて?経国を教育していこうとの意図の表れであった。?経国自身も「父は主に四書を読むよう指示し、とりわけ孟子、そして曽国藩が家族に宛てた手紙を重視していた」と語っている[13][14]

1921年、?経国の身辺に二つの大きな出来事が起こった。まず?経国の祖母で、?介石の母である王采玉が死去した。母の葬儀の後で?介石は「経児(?経国)は教えるべき、緯児(?緯国)は愛すべき」と訓示し、?経国を?家の後継者として育成していく方針を示した。そして?介石は母の存命中は、表面的には夫婦関係を維持してきた妻であり?経国の母である毛福梅と離婚し、同時に第二夫人の姚治誠とも別れ、上海で陳潔如と婚姻する[15][16]。同年、?経国は奉化県の龍津小学校に入学し、放課後も家庭教師の王欧声から教育を受けるようになったが、翌年、?経国は故郷を離れ、人生の転機の一つとなる上海行きが決まった[15][17]

?経国の上海行きは、閉鎖的な田舎では息子の見聞が広まらないと考えた父・?介石の意向であった。


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