?桂戦争
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新広西派の内部では、胡宗鐸・夏威・陶鈞と李明瑞・兪作柏らが対立していた。4月初め、李明瑞・兪作柏・楊騰輝らは?介石と打ち合わせた後、「内戦」への不参加を宣言し、所属部隊を後退させた。これにより新広西派の湖北東部(鄂東)防衛線に隙間が生じてしまった。新広西派は武漢放棄を迫られ、湖北西部(鄂西)へ後退し守勢をとった。

同じ頃、李宗仁・白崇禧は相前後して香港に着き、広州から西へ向かい広西に帰還し、広西の留守を守っていた黄紹と面会した。しかし、湖北の形勢は既に逆転できる形勢ではなかった。

4月11日、国民政府は「新広西派軍隊に告げる書」を発布し、新広西派の「罪悪」を列挙し、併せて新広西派軍の兵士に抵抗の放棄を呼びかけた。新広西派の兵士の心情は緩み、胡宗鐸・夏威・陶鈞・葉hらは別々に?介石と協力する交渉を行った。最後にはそれぞれ辞職し、出国した。湖北の新広西派部隊は?介石の軍に収容され改編された。

?介石は直ちに部隊を集め広西侵攻の準備をし、あわせて李宗仁、白崇禧に下野して出国することを勧告し、黄紹рノは広西でそのまま留まるのを認めた。ただし、李明瑞・兪作柏を広西の主席とすることを条件とした。新広西派にとってこの内容が十分に苛酷で、受け入れることができなかったので、部隊を動員し迎撃戦の準備をした。

5月5日、新広西派は「護党救国軍」の成立を宣言し、?介石討伐を発表した。同時に出撃を明らかにし、まず広東を攻略し、広東の収入を奪って経済を支え、同時に軍事的勝利をもって政治的劣勢を転換させた。5月15日、北方の馮玉祥は新広西派と合同して?介石を討つことを宣言し、?介石進攻のため出兵した。しかし、馮玉祥の配下の石友三韓復とともに馮玉祥への追随を放棄し、?介石に帰順した。このため馮玉祥の作戦は失敗することとなった。

5月中、新広西派の部隊は二手に分かれて広東に進攻し、広東派(粤系、粤軍)を破り、広州城下まで前進した。?介石は湖南派(湘系、湘軍)、貴州派(黔系、黔軍)、雲南派(?系、?軍)等の部隊を集め広西に進攻し、新広西派を牽制した。新広西派と広東派は白泥地区(広東省深?市)で決戦を展開し、新広西派は敗れて、新広西派の広東進攻作戦は失敗に終わった。また、北方の盟友馮玉祥の失敗を知り、新広西派は広西に退却を迫られた。しかし同時に桂林・柳州の線の新広西派はたびたび湖南派・貴州派・雲南派等の部隊に勝利していた。

?介石はすぐに、李明瑞・兪作柏・楊騰輝に所属する元新広西派軍を集め広東に南下し、西の広西に進攻した。李明瑞・兪作柏・楊騰輝の部隊の戦闘力は強く、梧州をすばやく攻略占領した。桂平の守将の韋雲淞は街を放棄した。新広西派はここまでで再度戦闘を行う力を失っていた。

6月27日、李明瑞所属の部隊は南寧に攻め入ったので、李宗仁・白崇禧・黄紹рフ三人は下野し、国外(香港、サイゴンハイフォン)に出た。新広西派勢力は敗れ、?介石は李明瑞・兪作柏・楊騰輝を広西省政府主席に任命した。?桂戦争は?介石の全面的な勝利に終わった。
結果と影響

3か月間の?桂戦争は?介石の勝利で終わった。「寧漢戦争」と「第2次北伐」から絶えず勢力を拡張してきた新広西派にとって深刻な打撃を受けることとなった。新広西派は、根拠地の広西を含め、すべての地盤を失ってしまった。保有していた軍事力も損失しほとんど尽きてしまった。新広西派の3人の首領李宗仁・白崇禧・黄紹рヘ国外へ逃れることとなった。この戦いで?介石は徹底的に新広西派の勢力を削いだが、李宗仁・白崇禧・黄紹рフ3人はわずか半年後には再び広西を掌握した。しかし、新広西派の政治的影響力は既に過去のようなものではなかった。

新広西派の敗北は、馮玉祥・閻錫山の両派と?介石の間の対立を激化させた。そして、その後反?介石各派連合の「中原大戦」を引き起こした。

李明瑞・兪作柏・楊騰輝の3人が広西省政府主席になった後、彼らは政治的にはもともと左派系であったので、広西に共産党の活動を引き入れた。このため、わずか2か月後には、?介石は広西に出兵進攻し、李明瑞・兪作柏らを追放した。広西の政局は混乱に陥ることになった。李宗仁・白崇禧・黄紹рヘこの機会に乗じ、広西への影響力を再び回復した。しかし、李明瑞・兪作柏らの左派系政治の状況は中国共産党が広西へ浸透することとなり、広西に共産党の根拠地ができることとなった。
脚注^ 青天白日旗を掲げ、国民政府への服属を表明すること。
^ 国民政府軍の機構再編として、革命軍総司令部を解消し、全国に6個の「編遣区」をおく構想であった。(内田知行『世界歴史大系中国史 5』山川出版社、2002年、159頁)
^ 湖南省は武漢政治分会の管轄であった。
^ 西南派、粤軍、広東軍ともいう。
^ 1927年11月の寧漢戦争で唐生智は李宗仁に敗れ日本に亡命していた。

参考文献

李宗仁口述、唐徳剛撰写、1988年2月第1版、「李宗仁回憶録」。広西:広西人民出版社。

莫済杰、陳福霖著、1991年8月第1版、「新桂系史」、第1巻。広西人民出版社。

関連項目

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