?介石
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台湾の研究者李君山は、このような列強の日本に対する実力制裁を期待する政略のために膨大な中国軍将兵が犠牲となったとして?介石を批判している[79]

南京戦の際に「倭寇(日本軍)は南京であくなき惨殺と姦淫をくり広げている。野獣にも似たこの暴行は、もとより彼ら自身の滅亡を早めるものである。それにしても同胞の痛苦はその極に達しているのだ」と1938年1月22日の日記に記している[80]

1938年、?介石は徐州に兵力を集結させて日本軍を引きつけ、武漢防衛の時間を稼ごうとしていた[81]。同年4月からの徐州会戦によって中国軍(国民革命軍)が敗戦、日本陸軍北支那方面軍に徐州の占領を許した。この敗走する中国の主力軍への追撃を阻止するべく、?介石は意図的に黄河の一部を爆破して川を氾濫させるという黄河決壊事件を承認した。同年6月、中国軍による黄河沿岸の爆破によって黄河が決壊、河南・安徽・江蘇の11市4000村に在する住宅・農地が破壊された住民は?介石を含む中国軍への非難を高めた。また、運悪く晴天が続いて氾濫水の蒸発が早かったことから、軍事作戦としての想定していた効果は得られなかった。

同年10月に日本軍が広州を軍事占領したことから、?介石を支えていた軍事補給ルートのひとつが事実上遮断されるに至る。香港に陸揚後、河川水路を利用して運搬されていた補給ルート(香港ルート)を失うが、しかし、他の補給経路(仏印ルート・ソ連ルート・ビルマルート)が残されており、各国からの物資供給は情勢に応じて継続していた。

1939年に入り日本軍の作戦範囲は小規模となったが、その間国民党軍は友好関係にあったソ連製の航空機により日本軍の航空機にわずかに損害を与えていた。しかし爆撃機主体の攻撃だったことや、1940年の秋ごろから日本軍の新型機零式艦上戦闘機の投入により、アメリカからの軍事支援を受けて増強されたはずの中国空軍の形勢は一気に不利になり、ほとんどの戦線で活動を停止させられるまでに至った。その後も日本軍の中国進出はさらに進み、最終的には中国大陸全土の実に1/3まで占領されてしまう。さらに国民党政府の臨時首都としていた重慶にも次第に日本軍の圧力が高まりつつあった。

一方、?介石と決別して日本との和平を望んだ汪兆銘が調印した日華新関係調整要綱は中国本土を傀儡化させるあまりにも過酷な条件であるとして高宗武陶希聖は批判し、「要項」の写しを持って香港に脱出した。1940年1月21日、香港の各新聞は一斉にトップ記事で密約の内容を報道した。これは、高宗武らが各新聞社あてに「調整要項の過酷さは、二十一力条要求(1915年)に二倍し、中国を属国にしようとするものだ」と手紙を出して、調整要項のコピーを暴露したことによる。これに対し、?介石は「敵の軍閥と汪が結んだ中日新関係調整要項の密約を読んで、怒り心頭に発した。国にたいする汪の反逆の万悪が、ついにここまで達したとは、痛苦に耐えない」としている[82]

1940年、日本の参謀本部は汪政権と?政権の合流を期待して、重慶との直接交渉の可能性をさまざまなルートを通じて探っていた。桐工作では条件を緩和させ、?介石、板垣征四郎、汪兆銘の三者が参加する大物会談に発展する和平工作になった。会談において論議の中心となったのは、満洲国の承認問題、華北の駐兵問題、汪兆銘政権の処置問題の三点であったが、いずれも合意に至らなかった。1940年で中国本土の植民地化・傀儡化は免れたものの華北への日本軍の防共駐屯は?介石が断固として反対し、交渉中に成立した第2次近衛内閣で陸相に就任した東條英機も日本陸軍の中国からの無条件撤退に断固として反対した。

しかし妻の宋美齢を経由して親中派として知られた大統領フランクリン・ルーズベルトをはじめとするアメリカ政府上層部に働き掛けた結果、5月1日にアメリカのルイジアナ州出身の陸軍航空隊大尉であったクレア・L・シェンノートを中華民国空軍の訓練教官及びアドバイザーとして雇い、「アメリカ合衆国義勇軍」という名目でアメリカからの軍事支援を受けることに成功した。
第二次世界大戦(太平洋戦争)

その後日本は仏印進駐によりアメリカによる対日石油輸出禁止となり、日本は経済制裁を受けることになる。戦争が長期化し、日米関係も悪化していた1941年9月、頭山満は東久邇宮稔彦王から?介石との和平会談を試みるよう依頼される。頭山は、玄洋社社員で朝日新聞社主筆の緒方竹虎に?介石との連絡をとらせ、「頭山となら会ってもよい」との返事を受け取った。これを受けて東久邇宮が首相・東條英機に飛行機の手配を依頼したところ、「勝手なことをしてもらっては困る」と拒絶され、会談は幻となった。

中国から無条件で撤退に猛反対した東條英機は中国本土に無賠償、非併合を声明しており、最終的に経済制裁を解除のために中国本土に防共駐屯を25年とすることで話がまとまった。アメリカ国務長官ハルは暫定協定案をまとめ、ワシントンの英蘭濠中代表に日本の乙案を提示したうえで、南部仏印からの日本軍撤退と対日禁輸の一部解除というアメリカの対案を提示したが、中国の胡適大使はこれでは日本は対中戦争を自由に遂行することが可能だとして強く反対した。?介石はアメリカは中国を犠牲にして日本と妥協しようとしているとして激怒、スティムソン陸軍長官、ノックス海軍長官にも親書を送り、チャーチルも、もし中国が崩壊すればイギリスも危機に瀕するとしてルーズベルト大統領を説得した。11月26日にハルは暫定協定案を放棄し、ハル・ノートを作成。同日野村・来栖両大使へ手交。日本はこれを最後通牒と解し、対英米開戦に傾く。

1941年12月8日に日本がイギリスやオランダと、続いてアメリカなどとの間に開戦した後は、イギリス軍やオーストラリア軍、アメリカ軍やオランダ軍がアジア太平洋地域の各戦線において日本軍に対して敗北を続け、さらに自国の武器の生産で手一杯な上に補給線の確保もままならなかったこともあり、この頃イギリスやアメリカからの支援が急速に縮小した。

このため、1942年連合国共同宣言に署名して連合国に加わった?介石が日本と休戦協定・単独講和を結ぶことで抗日戦を断念して連合国の戦線から脱落するという観測がもたれたことから、これを危惧したルーズベルトは?介石を、1943年11月22日に行われたカイロ会談に招き、イギリス首相チャーチルとともに「カイロ宣言」を発表するなど「連合国の1国の指導者」として扱った。宋美齢、関係が悪化する前のアメリカ軍の准将スティルウェルと(1942年)[83][84]

なお宋美齢は、1942年11月から1943年5月かけてルーズベルト大統領直々の招聘でアメリカを訪問し、アメリカ政府の全面的なバックアップを受けてアメリカ全土を巡回し自ら英語で演説し抗日戦への援助を訴え続けた。滞在時に抗日戦へのアメリカ市民からの義捐金を募るためにカリフォルニア州ハリウッドで演説した際には、メアリー・ピックフォードハンフリー・ボガートキャサリン・ヘプバーンイングリッド・バーグマンなどの多数のハリウッドスターから大きな称賛と金銭的なものを含む支援を受けた。また1943年2月18日には、ワシントンD.C.アメリカ連邦議会において宝石をちりばめた中華民国空軍のバッジを着けたチャイナドレス姿で抗日戦へのさらなる協力を求める演説を行い、並み入る連邦議員のみならず全米から称賛を浴びその支持を増やした。

なおこの段階で?介石夫妻は自国の戦局についてルーズベルトには明かしておらず、ルーズベルトも中国戦線の実態を認識していなかった。しかし期待とは裏腹に中華民国は開戦以来から対日戦に劣勢であり、またアメリカの度重なる要請にもかかわらず中国共産党軍との連携にも消極的であり、ともすれば国共内戦が再発しかねない状態で、?介石の権力基盤は脆弱だった[85]。また1942年の日本軍がビルマの援?ルートを遮断したことにより米英からの軍事支援はヒマラヤ越えのみとなり装備・物資とも不足に陥っており[86]、ようやく各地で英米軍が持ち直してきた1943年の中盤になっても戦局は不利であった。ジョセフ・スティルウェルは、1942年に中国戦線を担当したが、?介石を日記で「ピーナッツ」と呼んで罵った[83][84]。“ピーナッツ”は偏屈で恩知らずの小さなガラガラヘビだ…。(中国政府は)自分たちだけのことしか考えないならず者の集団だ。指導者たちの興味は、ただ金、権力、そして地位だけだ。手に入るものには何でも頭を下げ、自分は戦わないように心がける。インテリと金持ちは子どもを米国に送り、農民の子どもが戦争にかりだされる。しかも注意も訓練も指示も与えられずに死んでいる。われわれは、この腐敗した政府を支持し、その偉大なる愛国者兼戦士“ピーナッツ”に栄光を与えるために、戦おうとしているのだ?おお神よ! ? スティルウェル日誌[83]カイロ会談でルーズベルトチャーチルと(1943年)

カイロ会談後の12月6日にルーズベルトは中国へ派遣されている外交官やジョセフ・スティルウェルから、「次に日本軍に攻勢されれば国民党政府が倒壊する」と冷水を浴びせられ、スティルウェルは中国本土からアメリカ軍の日本本土への空襲は日本陸軍の猛烈な反撃を招くと共に日本軍の内陸部侵攻を招くとして、中国本土からの空襲計画に反対した。カイロ宣言は翌1944年4月の日本陸軍の大攻勢である大陸打通作戦につながった。

大陸打通作戦で日本軍が勝利を収める中、7月22日に日本では小磯内閣が成立した。この年末の大陸打通作戦での敗退以後、中国における対日本軍の戦局が決定的に不利となり、ついには1945年に行われた連合国の重要会議であるヤルタ会談ポツダム会談に?介石が招かれることはなくなった。


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