?介石
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1904年からは浙江省に設けられた新制の教育機関である鳳麓学堂で英語や数学を学び、その後寧波の箭金学堂で西洋法律を学んだ[7]

1905年の暮れには生家に戻り、1906年4月に日本へ渡る。この渡日の目的は東京振武学校で学ぶことであったが、保定陸軍速成学堂の関係者しか振武学校への入学を許可されていなかったので、目的を果たすことはできなかった。しかし?介石はこの渡日で、孫文率いる中国同盟会の一員で、孫文が進める武力革命運動の実践活動の中心であった陳其美と出会い、交友を深めた。中正紀念堂(?介石記念館)による「?公大事年表」はこの渡日を「公(?介石)参加革命運動之始」としている。また、日本のノンフィクション作家である保阪正康は、陳其美との交友が後に?介石が武力革命の実践者となることに大きな影響を与えたとする[8]

保定軍官学校在籍時の?介石

日本留学時の?介石

高田連隊時代

最初の妻毛福梅(左)、母・王采玉(中央)と
王采玉に抱き抱えられているのが?経国

同年冬に帰国し、改めて保定軍官学校に入学して軍事教育を受ける。そして翌1907年7月、再び日本へ渡り、東京振武学校に第11期生62名の一人として留学した。2年間の教育課程を修めたが、日本の陸軍士官学校には受からず入学せず日本陸軍に隊附士官候補生として勤務することとなり、1910年12月5日より新潟県中頸城郡高田町(現:上越市)の第13師団の歩兵、騎兵、砲兵各連隊に配属され実習を受けた[9]。?介石が配属されたのは野砲兵第19連隊(長:飛松寛吾大佐)で、小隊長は小山田三郎大尉であった[10]。このときに経験した日本軍の兵営生活について?介石は、中国にあっても軍事教育の根幹にならなければならないと後に述懐した[11]

1910年には?介石の人生に大きな影響を与えた二つの出来事があった。一つは3月に長男の?経国が誕生したことである。そしてもう一つは孫文との出会いである。6月、アメリカに渡っていた孫文は日本に移り、東京に入った。清国政府の要求で日本政府は孫文を2週間の猶予を与えて国外退去処分としたが、このとき?介石は東京に赴き、陳其美の門弟の立場で孫文との対面を果たしている。この対面で?介石は、自分も中国同盟会の一員で、革命には軍事面で貢献したいと孫文に表明したという[12]。この対面当時の孫文の?介石に対する印象は、「まちがいなく革命の実行者にはなるだろう」というもので、「革命の指導者」としての資質があるなどとは考えていなかった[12]
辛亥革命

1911年夏、長期休暇を取ると上海に帰国して陳其美と秘密裏に情報交換や計画の企画立案を行う[13]。10月頭に帰隊するが、それから間もない10月10日、辛亥革命が勃発する。陳其美より帰国要請を受けた?介石は張群、陳星枢とともに師団長の長岡外史中将に休暇帰国を申し出るが叶わず、飛松連隊長に48時間の休暇を申し出ると[13]、そのまま上海航路の日華連絡船長崎丸で帰国して革命に参加する。10月30日上海に着いた?は、その後陳其美と行動を共にする。陳は?に信頼を寄せており、杭州方面に駐在する新軍第二十一鎮(中国語版)第八十一標・第八十二標の蹶起支援のための漁民など義勇兵120名からなる決死隊[注釈 2]に任じた。?介石は杭州制圧のために軍勢を率いて向かったが、これが初陣ということで死を覚悟し、このとき実家の母、妻、そして長男に宛てて遺書を書き残している。11月3日から攻略戦を開始し、第三営とともに撫台衙門を包囲、巡撫増?を捕虜とした。翌日午後には杭州を陥落せしめ、浙江省の独立を宣言した。周承?は立憲派であった咨議局議長の湯寿潜を都督に選出したが、?は王金発とともにこれに反対意見を表明[15]。同じく蜂起に成功し上海都督に就任した陳其美は、革命勢力の内紛を抑えるため?を上海に引き戻し、滬軍第一師副師長兼第一団団長の役割を与えた。のち第一団は滬軍第二師(長:黄郛)第五団へと改編される。?は陳、黄郛の厚い信頼を得て、二人と義兄弟の契りを結ぶに至った。

11月22日から南京攻略戦が開始された。陳其美が陣頭指揮を執ったが、?介石は上海防衛を任されたため、攻略戦には参加していない。この頃の?介石は陳其美の護衛役を自負しており、陳の政敵である陶成章を暗殺するなどしている[16]

1912年1月1日、南京において中華民国の建国が宣言され、孫文が臨時大総統の地位に就いた。2月12日には宣統帝が退位し、清朝が崩壊した。同時に、孫文は臨時大総統の地位を北洋軍閥袁世凱に譲るなど、政局は大きく転換した。この時期の?介石は目立った行動を取っていないが、同年3月から第5団の職を張群に任せると12月まで日本に赴き、東京の代々木山谷で発行所「軍声社」を設置、中国同盟会の会員や在日華僑向けの軍事雑誌「軍声」を発行した[17]。また、?介石自らも記事を寄稿しているが、その中で「軍政統一問題」を取り上げていた。?介石は、軍事と政治を統一するにはそれにふさわしい指導者が必要で、その指導者を持つことができるか否かが各民族に課せられた課題であると説いた[18]
第二革命の失敗と日本への亡命

中華民国初の国会選挙を控えた1912年8月25日、孫文率いる中国同盟会を中心に各政治結社が合流して国民党が結成された。翌年3月、国民党は国会選挙に圧勝したが、独裁を志向する大総統・袁世凱は、3月20日、孫文に代わって国民党の実権を握り、議院内閣制を志向していた宋教仁を暗殺した。宋の暗殺により国民党での実権を掌握した孫文は、独裁を強める袁世凱に対抗して武装蜂起を試み、「第二革命」を起こした[19]。中華民国の閣僚の地位にあった陳其美も上海に戻った。このとき?介石はすでに日本から帰国し奉化県渓口鎮に戻っていたが、5月には上海に赴き、陳其美の下で国民党員となっていた。「第二革命」が勃発すると、陳は上海に在って討袁軍総司令と称し、?介石率いる第五団に命じて蜂起を企てたが、上海市内は政府軍に押さえられており、?が説得に当たったものの、第五団の大勢が政府軍についたため、蜂起は失敗した。陳は地下に潜伏したが、?介石は日本に亡命した。そして、7月に勃発した「第二革命」自体も8月には失敗に終わり、孫文も日本へ亡命した。

孫文は日本を革命の根拠地とし、革命達成のための教育機関を設置した。このうち、日本人の退役将校の支援を受けた軍事専門家の養成機関「浩然廬」の教官に?介石が選ばれた。しかし、1913年12月1日に開校した浩然廬であったが、翌年6月、爆弾製造の授業中に爆破事故を起こしたために、日本の官憲によって解散処分となった。

1914年7月8日、孫文は議会政党であった国民党を解体し、東京において中華革命党を結成、その総理(党首)に就任した。この党は議会制を否定する「革命党」であるとともに、孫文に絶対的忠誠を尽くす集団としての性格を帯びていた[20]。?介石の師である陳其美は党総務部長となって党の全ての実務を取り仕切り、孫文の右腕と目されるようになった。そして?は陳とともに入党して孫文に絶対の忠誠を誓った。まもなく、?介石は孫文に命じられて満州に向かい、現地の革命派軍人と交渉し、反袁世凱闘争と南方への軍事的進出を企てたが、これは情勢が許さず、不調に終わった。

7月28日第一次世界大戦が起きると、?介石は中国から孫文に書簡を送り、大戦によって日本が東アジアで台頭し、それが結局袁世凱政権打倒につながるとの考えを示した[21]。そして、大戦によって東三省のロシア軍がヨーロッパ戦線に出動することを見越して、東三省での革命工作に乗り出そうとしたがこれも不調に終わり、結局日本へ戻った。9月からは、孫文の命を受けて革命党員に対する宣伝活動に携わるようになった。孫文は革命党員を中国に送り出し革命工作に従事させていたが、?介石は彼らに具体的な指令を発する職務を担ったのである。
帰国と陳其美の死

孫文率いる中華革命党は、秘密裏に中国国内で軍事組織を編成していった。革命軍は四つの軍で編成され、陳其美が東南軍司令官に、居正が東北軍司令官に、胡漢民が西南軍司令官に、于右任が西北軍司令官にそれぞれ任命された。孫文は1914年10月、東京で袁世凱政府打倒の宣言を発した。これに呼応した陳其美は同月、上海での軍事活動に率先して役割を果たすように?介石へ連絡してきた。?は直ちに上海へ赴き、陳とともに反袁活動に従事した。11月10日には「第二革命」のときに反政府活動を弾圧した上海鎮守使の鄭汝成の暗殺に成功。しかし、翌年12月の挙兵には失敗して、フランス租界での潜伏を余儀なくされた。

?介石は上海で知り合った二番目の夫人である姚治誠とフランス租界で潜伏生活を送った。?は酒もたばこも嗜まないストイックな人物とされるが[9]、この時期の?は地下活動にも似た厳しさから酒色に溺れることもあったという[22]。母の王采玉、妻の毛福梅、長男の?経国は渓口鎮の実家におり、?経国は1916年に地元の武嶺学校に進学していたが、毛福梅は仏門に興味を持つようになっていった。また、この時期に?介石は、自身と行動をともにしていた軍人の戴季陶と日本人女性との間に生まれた男子を引き取り、?緯国と名づけ、姚治誠のもとで養育している。

1916年5月18日、陳其美はフランス租界の山田純三郎邸において、北洋軍閥の張宗昌が放った刺客によって暗殺された。?介石はすぐに山田邸に駆けつけ、遺体をなでながら、体を震わせて泣いた。そして、山田邸に掲げられていた陳其美の筆による「丈夫不怕死 怕在事不成(丈夫は死をおそれず、事の成らざるをおそる)」の言葉を何度も口ずさんだという[22]。葬儀では、陳其美の遺志を継ぐという趣旨の追悼文を読み上げた。陳は生前、孫文に対して「?介石こそが自分の後継者である」と書簡を送っていた。保阪正康は陳の死によって孫文の?介石に対する見方が変わっていったとする[22]


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