?介石
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すなわち陳は孫文と異なり、省自治を前提とした、各省の横の連合による地域統合型の国家建設を目指していたのである[33]。陳は武力統一を目指す孫文と激しく対立した。

?介石はあらためて大本営で開かれた作戦会議で、北伐軍を広東に戻し、体勢を立て直してから江西に攻め入るべきだと主張した。この提案は受け入れられ、さらに?介石は北伐軍と陳炯明が衝突しないように調整に当たることとなった。4月12日に?介石が軍を率いて広東に入ると、陳炯明は孫文に辞表を提出し、配下の部隊を率いて逃亡した。孫文は陳炯明を軍職からは解任したものの内務部長の職には留めた。この措置に反発した?介石は、またしても孫文に辞表を出し、そして陳炯明に「孫文の意向に従い、北伐軍を指揮せよ」との警告を発して上海へ戻った[34]

孫文はその後も北伐を準備したが、それに反対する陳炯明との対立も先鋭化していった。そこで孫文は、上海にいた?介石に来援を求める電報を送っている。しかし北伐軍が広東を出発すると、陳炯明は6月16日にクーデターを起こし、広州の総統府を砲撃した。孫文は側近たちと共に軍艦「楚豫」に逃亡、六十数日にわたって陸上の陳炯明軍と交戦した。?介石は6月29日、孫文救援のために楚豫へ駆けつけ、48日間共に戦った。ここで?は孫文の厚い信頼を得ることに成功した[35]。だが戦況は不利で、?介石は孫文に香港への逃亡を進言、孫文と?はイギリスの軍艦に移って香港に向かい、そこから上海へ移った。

?介石は再び上海で無為の生活を送ることになった。ここでの生活では陳炯明の裏切りを非難する手紙を孫文の側近に送るか、証券取引所に出入りして投機に熱中するかであった[36]。こういった生活は1923年3月まで続いた。

広東政府を乗っ取った陳炯明は、北伐軍を率いていた許崇智など孫文傘下の軍に追い詰められていった。孫文は?介石を東路討賊軍参謀長に任命し、福建に派遣して軍を監理させようとした。しかし?は福建の司令部で許崇智と衝突してしまい、またもや上海へ帰った。このとき孫文は?介石の必ず他人と衝突する性格を案じる手紙を送り、?介石に役割を果たすように説いた[37]。そこで?は再び福建に戻った。しかし、すでに雲南・広西の討賊軍が陳炯明を追い詰めいており、?が大きな役割を果たすことは少なかった。結局、陳炯明は敗れて恵州に退き、12月15日に討賊軍が広州に入城。1923年3月、孫文が陸海軍大元帥に就任して第三次広東軍政府が成立した。新政府において、?介石は大元帥府大本営参謀長に任命された。

参謀長に就任した?介石は、陳炯明の残党や直隷派呉佩孚との戦いを指揮した。これらの戦いは、広東政府の財政難によって軍備の拡充が進んでいないこともあり、苦しいものであった。しかし?の軍事的能力は、孫文だけでなく後に?と対立することになる汪兆銘や胡漢民らにも高く評価された[38]
ソ連訪問と黄埔軍官学校校長就任

陳炯明によって政権を追われていた孫文は、1923年1月、ソビエト連邦の代表として中国を訪問していたアドリフ・ヨッフェと上海で会談し、「孫文=ヨッフェ宣言」を発表した。これは、中国における共産主義の可能性を排除しながらもソ連と提携し、連ソ・容共に基づく中国国民党と中国共産党の「合作」(国共合作)を正式に宣言するものであった[39]。その後、第三次広東軍政府を組織した孫文は、ソ連とのさらなる連携を求めて同年8月、ソ連に「孫逸仙博士代表団」を送った。中国に社会主義的思潮が勃興した1919年以降、ロシア語を学び、『共産党宣言』や『マルクス学説概要』などを読んでいた?介石は孫文の連ソ方針に賛同しており[9]、「赤い将軍」「中国のトロツキー」[40][41][42]とまで呼ばれており、この代表団の一員としてソ連に渡ってソ連赤軍の軍制を視察することになった。

モスクワではレフ・トロツキーから赤軍の組織原理を学び[35]、ソ連の軍隊における軍事と思想教育の分離に関心を持ったという[43]。このソ連訪問は?介石にとって軍事面や政党の組織作りといった面では大いに参考となるものであったが、一方ではソ連への不信感を抱かせるものであった。11月25日のコミンテルンの席上、?が国民党を代表して行った演説に対して公然と批判された[44]。この演説で?は孫文の三民主義を語り中国革命の意義を説いたのだが、ソ連では孫文と三民主義に対する評価は決して高いものではなかったのである[43]。これに衝撃を受けた?はソ連への不信と共産党に対する警戒感を強くして中国に帰国していった。?が帰国したとき、国民党の改組が進んでおり、中国共産党員が国民党の中央執行委員に加わっていたり、コミンテルンの代表であるミハイル・ボロディンが国民党の最高顧問となっていたりしていた。これに怒った?はまたもや渓口鎮に引きこもった。汪兆銘や廖仲ト、そして孫文からは広東に戻って視察報告をせよと何度も督促されたが、?は結局1923年の年末から翌年の正月にかけて故郷で過ごした。

1924年1月、広州において中国国民党第1回全国代表大会(党大会)が開催された。この党大会では国民政府の樹立が目標とされるとともに、その手段として「連ソ・容共・扶助工農」があらためて打ち出され[45]ソ連共産党の組織原理に基づいて、組織の改組が正式に実行された。党内には委員会制と民主集中制が導入され、中央執行委員会が最高意思決定機関として設置された。孫文が国民党総理として、存命中は自動的に中央執行委員会の長となることが保障されたが、その他の委員は選挙で選ばれることになった[46]。この第1期党中央執行委員会には国共合作によって共産党員も選出されており、後に中国共産党中央委員会主席中華人民共和国主席となり、?介石の終生のライバルとなる毛沢東も共産党籍を持ったまま国民党中央執行委員候補に選ばれている。一方、?介石は党大会に出席したものの、中央執行委員には選出されなかった。しかし、この党大会で国民党による政治指導を受けた革命軍すなわち国民党の党軍の組織と、その将校の教育機関である軍官学校の設立が決議され、?介石が軍官学校設立準備委員会委員長および陸軍軍官学校校長兼広東軍総司令部参謀長に任命された。

?介石はさっそく軍官学校の設立準備に取り掛かったが、設立資金の不足と党内事情に対する不満から二週間ほどで辞表を出し、廖仲トに軍官学校の設立事業を託してまたもや上海に戻った。孫文もさすがに怒ったが再三にわたり?に復帰を要請し、?も結局これを受け入れた。この繰り返される辞職騒動は、?介石の「人的関係についての異常な鋭敏さ、事物に対する極端な好悪」、「すべてが軍隊のように、きちんとしていなければ承知できなかった」性格が大きく影響しているものとみられる[47]

孫文による?への黄埔軍官学校校長任命状

黄埔軍官学校入学式後の国民党要人の記念撮影。
中央の椅子に腰掛ける人物が孫文、その後に?介石。?と並ぶのは教官の何応欽(左)と王柏齢(右)。

黄埔軍官学校校長時代

紆余曲折はあったものの、1924年5月3日、?介石は広州に設立された黄埔軍官学校の校長に就任し、6月10日に入学式を迎えた。?介石は新入生に対して三民主義に命をかける幹部の養成、軍の規律を説く講話を行った。黄埔軍官学校では、組織や訓練面ではソ連式が採用されたが、日常的な軍隊生活の規律は?介石の東京振武学校や新潟での日本陸軍第13師団での体験が基礎となっていた[48]。また、清朝末期の改革派大官で?介石が尊敬する曽国藩が説いた儒学的人生訓・処世訓も教育に反映されていた[49]。?介石は将校の教育に熱心に取り組む一方で兵士の養成にも力を注いだ。特に自分の出身地である浙江省を中心に兵士を募集していった。黄埔軍官学校で学んだ将校や兵士たちは後の北伐軍、中華民国軍の中核をなしていく。科挙時代の中国では自分が合格した試験の監督を生涯にわたって師匠と仰ぐ習慣があったが、黄埔軍官学校の卒業生もまた校長である?介石を特別な存在として仰いだ[50]。彼らとの師弟関係は、この後?介石にとって大きな政治的資源となっていくのである[48]

黄埔軍官学校はソ連の支援の下につくられたため、共産党員も教官となった。後に西安事件で監禁された?介石を説得して第二次国共合作を成立させ、中華人民共和国の建国後に国務院総理(首相)となった周恩来が政治部副主任(後、主任に昇格)に、中華人民共和国元帥となった葉剣英が教授部副主任に任命された[51]。黄埔軍官学校、正式名称を中国国民党陸軍軍官学校というこの士官学校では、国民党総理の孫文が唱える三民主義と同時にマルクス主義も教えられていたのである。この頃国民党内部では、共産党との合作を第一義に考える左派と共産党との対立姿勢を隠さない右派に分かれて対立が生じ始めていた。左派の代表格は汪兆銘であったが、右派の領袖として?介石が擬せられるようになっていった。黄埔軍官学校の校長として?介石は共産党員の教官とともに軍人の養成に当たらねばならない立場にあったが、黄埔軍官学校内部でも国民党と共産党の対立が芽生えていく。

1924年8月から10月にかけて商団事件が勃発した。これは孫文の広東政府が「赤化」したとして危機感を覚えたイギリスなどが、広東にあるイギリス系銀行の代表者である陳廉伯に働きかけ、商人団に武装させて広東政府の転覆を図ったものである。陳炯明の残党と手を結んだ商人団が武装蜂起するや、孫文は?介石に鎮圧を命じた。?介石は黄埔軍官学校の学生を中核とする国民党軍を直接率いて事件を鎮圧した。

商団事件の最中の9月、北京では第二次奉直戦争が発生し、これを契機と捉えた孫文は「北伐宣言」を発した。ところが、商団事件により出陣準備に手間取っていたため、第二次奉直戦争は収束した。しかし、北京政府の実権を握った馮玉祥張作霖から善後策を協議したいとの招請を受け、孫文は北上することになった[52]。孫文はこの時、商人団の反乱など広東でのクーデターを危惧する側近に対し、「大丈夫だ。


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