?介石
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周承?は立憲派であった咨議局議長の湯寿潜を都督に選出したが、?は王金発とともにこれに反対意見を表明[15]。同じく蜂起に成功し上海都督に就任した陳其美は、革命勢力の内紛を抑えるため?を上海に引き戻し、滬軍第一師副師長兼第一団団長の役割を与えた。のち第一団は滬軍第二師(長:黄郛)第五団へと改編される。?は陳、黄郛の厚い信頼を得て、二人と義兄弟の契りを結ぶに至った。

11月22日から南京攻略戦が開始された。陳其美が陣頭指揮を執ったが、?介石は上海防衛を任されたため、攻略戦には参加していない。この頃の?介石は陳其美の護衛役を自負しており、陳の政敵である陶成章を暗殺するなどしている[16]

1912年1月1日、南京において中華民国の建国が宣言され、孫文が臨時大総統の地位に就いた。2月12日には宣統帝が退位し、清朝が崩壊した。同時に、孫文は臨時大総統の地位を北洋軍閥袁世凱に譲るなど、政局は大きく転換した。この時期の?介石は目立った行動を取っていないが、同年3月から第5団の職を張群に任せると12月まで日本に赴き、東京の代々木山谷で発行所「軍声社」を設置、中国同盟会の会員や在日華僑向けの軍事雑誌「軍声」を発行した[17]。また、?介石自らも記事を寄稿しているが、その中で「軍政統一問題」を取り上げていた。?介石は、軍事と政治を統一するにはそれにふさわしい指導者が必要で、その指導者を持つことができるか否かが各民族に課せられた課題であると説いた[18]
第二革命の失敗と日本への亡命

中華民国初の国会選挙を控えた1912年8月25日、孫文率いる中国同盟会を中心に各政治結社が合流して国民党が結成された。翌年3月、国民党は国会選挙に圧勝したが、独裁を志向する大総統・袁世凱は、3月20日、孫文に代わって国民党の実権を握り、議院内閣制を志向していた宋教仁を暗殺した。宋の暗殺により国民党での実権を掌握した孫文は、独裁を強める袁世凱に対抗して武装蜂起を試み、「第二革命」を起こした[19]。中華民国の閣僚の地位にあった陳其美も上海に戻った。このとき?介石はすでに日本から帰国し奉化県渓口鎮に戻っていたが、5月には上海に赴き、陳其美の下で国民党員となっていた。「第二革命」が勃発すると、陳は上海に在って討袁軍総司令と称し、?介石率いる第五団に命じて蜂起を企てたが、上海市内は政府軍に押さえられており、?が説得に当たったものの、第五団の大勢が政府軍についたため、蜂起は失敗した。陳は地下に潜伏したが、?介石は日本に亡命した。そして、7月に勃発した「第二革命」自体も8月には失敗に終わり、孫文も日本へ亡命した。

孫文は日本を革命の根拠地とし、革命達成のための教育機関を設置した。このうち、日本人の退役将校の支援を受けた軍事専門家の養成機関「浩然廬」の教官に?介石が選ばれた。しかし、1913年12月1日に開校した浩然廬であったが、翌年6月、爆弾製造の授業中に爆破事故を起こしたために、日本の官憲によって解散処分となった。

1914年7月8日、孫文は議会政党であった国民党を解体し、東京において中華革命党を結成、その総理(党首)に就任した。この党は議会制を否定する「革命党」であるとともに、孫文に絶対的忠誠を尽くす集団としての性格を帯びていた[20]。?介石の師である陳其美は党総務部長となって党の全ての実務を取り仕切り、孫文の右腕と目されるようになった。そして?は陳とともに入党して孫文に絶対の忠誠を誓った。まもなく、?介石は孫文に命じられて満州に向かい、現地の革命派軍人と交渉し、反袁世凱闘争と南方への軍事的進出を企てたが、これは情勢が許さず、不調に終わった。

7月28日第一次世界大戦が起きると、?介石は中国から孫文に書簡を送り、大戦によって日本が東アジアで台頭し、それが結局袁世凱政権打倒につながるとの考えを示した[21]。そして、大戦によって東三省のロシア軍がヨーロッパ戦線に出動することを見越して、東三省での革命工作に乗り出そうとしたがこれも不調に終わり、結局日本へ戻った。9月からは、孫文の命を受けて革命党員に対する宣伝活動に携わるようになった。孫文は革命党員を中国に送り出し革命工作に従事させていたが、?介石は彼らに具体的な指令を発する職務を担ったのである。
帰国と陳其美の死

孫文率いる中華革命党は、秘密裏に中国国内で軍事組織を編成していった。革命軍は四つの軍で編成され、陳其美が東南軍司令官に、居正が東北軍司令官に、胡漢民が西南軍司令官に、于右任が西北軍司令官にそれぞれ任命された。孫文は1914年10月、東京で袁世凱政府打倒の宣言を発した。これに呼応した陳其美は同月、上海での軍事活動に率先して役割を果たすように?介石へ連絡してきた。?は直ちに上海へ赴き、陳とともに反袁活動に従事した。11月10日には「第二革命」のときに反政府活動を弾圧した上海鎮守使の鄭汝成の暗殺に成功。しかし、翌年12月の挙兵には失敗して、フランス租界での潜伏を余儀なくされた。

?介石は上海で知り合った二番目の夫人である姚治誠とフランス租界で潜伏生活を送った。?は酒もたばこも嗜まないストイックな人物とされるが[9]、この時期の?は地下活動にも似た厳しさから酒色に溺れることもあったという[22]。母の王采玉、妻の毛福梅、長男の?経国は渓口鎮の実家におり、?経国は1916年に地元の武嶺学校に進学していたが、毛福梅は仏門に興味を持つようになっていった。また、この時期に?介石は、自身と行動をともにしていた軍人の戴季陶と日本人女性との間に生まれた男子を引き取り、?緯国と名づけ、姚治誠のもとで養育している。

1916年5月18日、陳其美はフランス租界の山田純三郎邸において、北洋軍閥の張宗昌が放った刺客によって暗殺された。


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