? 介石(蒋 介石、しょう かいせき、チャン・チェシー、1887年10月31日〈光緒13年9月15日〉 - 1975年〈民国64年〉4月5日)は、中華民国の政治家、軍人。第3代・第5代国民政府主席、初代中華民国総統、中国国民党永久総裁。国民革命軍・中華民国国軍における最終階級は特級上将(大元帥に相当[2])。浙江省寧波府奉化県出身。日本や中華人民共和国では?介石の呼び名で知られているが、中華民国(台湾)では?中正(しょう ちゅうせい)の名称が一般的である。
孫文の後継者として北伐を完遂し、中華民国の統一を果たして同国の最高指導者となる。第二次世界大戦では同国を四大国の一角にさせ、連合国中国戦区最高統帥だった[3]。しかし、戦後の国共内戦で毛沢東率いる中国共産党に敗れ、1949年、日中戦争後に接収していた台湾へ移り、1975年に死去するまで大陸支配を回復することなく同国の国家元首の地位にあった。
名前(中国語版)(学校における名前、学号)は志清であったが、後に中正と改める。介石は字[5]。英語などでは、「介石」の広東語での発音に基づいてChiang Kai-shek(チアン・カイシェック)と綴られることが多いが、「中正」あるいは「介石」の標準中国語音に基づいて綴られることもある。1914年7月、彼は日本語の別名「石田雄介」を使用した。
年譜
1887年、浙江省寧波府奉化県(現:寧波市奉化区)渓口鎮に生まれる。
1902年、毛福梅(当時19歳)と結婚。
1904年、奉化の鳳麓学堂や寧波の箭金学堂で学ぶ(1904年 - 1905年)。
1906年、保定陸軍軍官学校で軍事教育を受ける。
1907年(明治40年)日本に留学(東京振武学校)する。
1909年、大日本帝国陸軍に勤務。高田の陸軍十三師団の野砲兵第19連隊の士官候補生( - 1911年)
1910年、?経国誕生(1927年、毛福梅は出家、離縁する。1939年12月、日本軍の空襲で奉化県渓口鎮で死去)
1911年 - 1912年、辛亥革命に参加。後に孫文に認められ、中国国民党内右派の代表として頭角を現す。
1916年、戴季陶の子で?緯国を養子にして次男とする。
1923年、孫文の指示により、ソ連の軍制を視察。
1924年、広州の黄埔軍官学校校長に就任。
1926年7月1日、中国国民党が北洋軍閥等に対し北伐を開始。
1927年(民国16年)、宋美齢と結婚。