蓮華院誕生寺
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しかし天正9年(1581年)、龍造寺政家が小代親伝に大野別府二百町を与えていることから[9]、その年に龍造寺氏の攻撃に遭い、大野氏が滅亡し、その庇護にあった浄光寺も焼失したとされる。これにより、平安時代末期ないし鎌倉時代初期に創建され400年前後存続してきた浄光寺も灰燼に帰し、以後は放置され山野となるに任せ、江戸時代の肥後國誌に記されるとおり、築地、南大門、蓮華などの地名、2基の五輪塔、釈迦堂と呼ばれる小堂だけが残された。浄光寺の北東隣には、蓮華という微小地名が残り、これは蓮華院という塔頭寺院の存在を暗示する[10]。江戸時代の肥後國誌には浄光寺蓮華院と書かれているが、中世文書には蓮華院という名は出てこないことから、浄光寺と塔頭寺院の蓮華院を混同して使われたものと思われる。
昭和の再興およびその後川原是信大僧正銅像

昭和4年当時、初代の川原是信は、荒尾で霊能者として祈祷所を営んでいた。旧浄光寺跡の一帯はその頃は寒村で、数軒の人家や畑があるだけで、残りは雑木林や竹林などに覆われた藪になっていたのだが、子供たちが藪に入って遊ぶと腹痛を起こし女性が中に入ると眼病を患うなど、こうした現象に村人たちは荒神様がいるとして怖れていた。そこで村人たちは是信の祈祷力を聞きつけて、その祈祷力で地霊を鎮めることを依頼した。

12月10日早朝、村人から請われるままに、是信が浄光寺跡地の草堂で読経をしていると、突然皇円から「我は今より760年前、遠州桜ケ池に龍身入定せし阿闍梨皇円なり。今心願成就せるをもって、汝にその功徳を授く。よって今から蓮華院を再興し衆生済度をはかれ。」との霊告を受けた[11]。そのとき34歳だった是信は、皇円という名も桜ヶ池の存在も知らなかったが、このただならぬ霊告によりすぐさま寺の再興に取り掛かり、翌昭和5年3月には村人の協力を得て、小さな本堂が建設された。これが浄光寺蓮華院再興の第一歩で、これ以降、貫主堂である阿闍梨堂、食堂、男女の参籠所などが建てられ、寺院としての形を徐々に整えていった。そして再興された寺の名は浄光寺とせず、皇円の生誕地の寺ということで蓮華院誕生寺とした。その後、この小さかった本堂は昭和25年(1950年)には、大願堂(だいがんどう)と名付けられた新本堂に姿を変え、さらにこの大願堂も昭和41年(1966年)にはRC造の本格的本堂として建て変えられて今日に至っている。このように是信は皇円の霊告に従って、蓮華院の再興に力を注ぎながら、同時にその天才的な霊能、激しい修行、そして皇円の功徳力により、密教行者として霊力をますます強め、衆生済度を行ない、そのため信者は全国に増えていった。

昭和52年(1977年)、第1世の是信の死後、第2世には川原真如が住職に就任した。翌昭和53年(1978年)11月3日には、是信が発願した奥之院が小岱山中に落慶し、信者のみならず一般の人にも蓮華院の信仰を広めていくこととなった。真如は布施行の実践に努め、カンボジア難民救済を始め、これをもとに昭和54年(1979年)NPO法人「れんげボランティア会」を創設し、一食布施運動、同胞援助運動などを展開し、国際協力活動を推進した。またその後「親を大切にする子供を育てる会」を設置し、全国の小中学生から母の詩を募集し、親子の絆を強める運動を推進した。

平成4年(1992年)、川原英照が中興第3世として住職を継承し、信者に対しての衆生済度だけでなく、れんげボランティア会によるスリランカ、チベット、カンボジアなどへの国際協力にますます力をいれているのみならず、平成7年の阪神大震災、平成22年(2011年)の東日本大震災にはボランティアチームを派遣するなど、国内での社会活動にも力を入れている。平成17年(2005年)にはダライラマ14世を招いて、本院で世界平和祈念護摩法要、奥之院で法話会が行なわれ、地方寺院でありながらもその国際的な活躍は社会から注目を集めている。平成28年(2016年)の熊本地震では寺を挙げて支援活動に邁進。また全国各地からの支援グループを寺内に受け入れ、熊本県北における支援活動のプラットフォームとしての役割も果たした。多宝塔

伽藍大日如来五智如来。東を向いた大日如来を中心に東向きに阿?如来、南向きに宝生如来、西向きに無量寿如来、北向きに不空成就如来が配されている。毎年1月13日、4月29日、6月13日に御開帳される。

建築的には、平成9年に伝統的建築技術で造られた木造の五重塔が落成し、さらに平成23年には南大門が再建され、平成30年には多宝塔が落成するなど、由緒ある寺院として格式を高めている。
文化財(玉名市指定)
浄光寺蓮華院跡出土鎮壇具および古瓦

昭和5年、現在の蓮華院誕生寺を中興する際に、現在の本堂付近に旧本堂を建設するために整地していたとき、小仏像2体・香炉1点・鶴亀の燭台3点の荘厳具が出土、昭和38年12月には、現本堂の建設工事中に金銅仏頭1躰、勾玉1点、盤1点などの鎮壇具が出土した。また昭和34年3月にも布目軒丸瓦3点、布目軒平瓦2点が出土している。いずれも鎌倉時代とされる。鎮壇具は本尊の下の地下に工事の無事を祈願するためのもので、これらの出土品から、現在の蓮華院誕生寺の本堂付近が中世の浄光寺の本堂跡とされている[12]。出土品は蓮華院誕生寺庫裏に展示。

出土した仏像

鶴亀の燭台

巴瓦

関白塔 附 浄光寺跡出土五輪塔地輪蓮華院誕生寺の中門脇に残る中世の五輪塔

関白塔と呼ばれる凝灰岩からなる五輪塔2基。東塔は高さ253.6センチ、西塔は基礎石を失するが高さ268.8センチで、九州では最大の高さ。文字はなく、これは鎌倉時代後期から室町時代にかけての真言律宗系の五輪塔の特徴を示している。中世には浄光寺が真言律宗の奈良の西大寺の末寺であったことと一致する。また五輪塔の最下部の地輪3基も出土しており、南北朝時代の銘がある。蓮華院誕生寺山門西側に2基並んでいる。
伽藍:南大門と四天王像南大門(平成23年5月23日落慶)

蓮華院誕生寺は中世浄光寺の地に、これを復興するかたちで建立された。玉名市築地には南大門という地名が、字として現在に残っている。浄光寺の南大門がこの地にあった証左であるが、それが400年ぶりに再建されたことになる。南大門は青森ヒバによる二層楼門式で、身舎は幅五間奥行き二間で、外側の一間に四天王が安置され、中央の三間が通路であるが扉は付けられていない。石造の高い基壇の上に建てられており、平成23年に落慶した。屋根は初層が二手先、上層が尾垂木付の三手先で支えられ、上層の周囲には高欄が廻っている。門のすぐ前に公道が通っているために、その上に太鼓橋を架け、前面の敷地と結んでいる。設計施工は、匠社寺建築社、設計担当は大浦敬規である。

初層の四隅には四天王が安置されている。四天王はインドにおいて仏教が広がるにつれて古代の神々が、仏教の護法神として取り入れられたものである[13]。日本では寺院を守護する役割として門に安置される場合が多い。護法神であるため甲冑をつけ覇気に満ちた忿怒の形相をし、手には武器や法具を持ち足には邪鬼を踏みつけた像として表現される。蓮華院誕生寺の四天王も表現はやや抑制しつつも、身体全体から指先に至るまで生気が満ち満ちて力が漲っており、あらゆる邪気や敵から仏教を守護しようとする激しい気迫を見せている。門の正面に向かって左手に増長天、右手に持国天、また内側の左手に広目天、右手に多聞天が配置されている。像高は2.75mと大きく、まず小像を作って賽の目に分解し、それを拡大して合わせる賽割法(さいわり法)と呼ばれる特別方法で作られた[14]。巨大な激しい感情と動きを表現した四天王は、金を使った極彩色で着色され、豪華絢爛たる生き生きとした迫力を見せている。製作は京都の仏師、今村九十九である。

持国天は東方の守護神、身体は青で、右手は腰の位置に下げて独鈷杵を力強く握り、左手は三叉戟を高く掲げ持つ。口は大きく歯を見せてかっと開き、太い眉を吊り上げて大きく眼を開いて睨む[15]。増長天は南方の守護神。身体は赤紫で、紺の鬢髪に顔は眼を大きく見開き、口も赤い唇と相まって持国天より大きく開き、右手に剣(日本刀)を頭上高く持って前に突き出し、左手は腰に当て索をもつ[16]。広目天は西方の守護神で、身体は白色である。右手は顔の横に筆を持ち、左手は腰の位置に巻物を持ち、書写の形をもつ[17]。顔は眉を上げ眉間に皺を寄せてはいるが、眼は他の三神と違い大きく見開かずむしろ薄く開け、口は堅く閉じている。単純に忿怒の表情を見せるというより、一瞬の躊躇いというか優しさというか、激しい感情の中にも人間に対する愛情とか慈悲を感じさせるような、四天王の中でも最も複雑で高い次元の内なる感情を表している。横綱白鵬が心象モデルを務めた。多聞天は毘沙門天ともいう。北方を守護する神で、財宝や富貴を司り、四天王の中で最も由緒正しい。広く仏法を聞くという意味で多聞天という。身は黒色、頭に鈴を乗せ、右手に宝棒を持ち、左手に宝塔を高く捧げもつ[18]。顔の表情は眼を大きく開きながら口は何か強い決意を秘めたようにきっと結んでおり、強烈な熱い感情を内に秘めつつも、どこか落ち着いた静謐な心の内面を感じさせる。横綱朝青龍が心象モデルを務めた。

表側に配置された二天は武器を持ち、仏教の守護神としての激しい感情を直接的に表現しており、正に外に向かって邪悪な魂を打ち破ろうとしている。これに対し内側の二天は、武器ではなく仏教の教えを象徴する法具などをもち、忿怒の表現は抑制され内に秘められ、表情は静かでかつ複雑であり、寺院の内に対して仏教を鼓舞する役割を果たしている。

持国天。右手に独鈷杵、左手に三叉戟を持つ。

持国天頭部

増長天。


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