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蓋鹵王
各種表記
ハングル:???
漢字:蓋鹵王
発音:ケロワン
日本語読み:がいろおう
ローマ字:Gaero-wang
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蓋鹵王(がいろおう、? - 475年)は、百済の第21代の王(在位:455年 - 475年)。先代の?有王の長子であり、『三国史記』によれば諱は慶司。また、近蓋婁王とも記され、『日本書紀』には加須利君(かすりのきみ)、『宋書』には余慶の名で現れる。455年9月に先王の死去に伴い、王位についた。子に文周王。 中国南朝と通じるとともに新羅・倭国と同盟(羅済同盟)して高句麗に対抗するという、百済の伝統的外交政策を維持するのに努めた。北朝に対して高句麗を討伐することを働きかけるが失敗し、却って高句麗の侵攻を招いた。その結果475年には首都慰礼城(ソウル)を陥落させられ、王自身は戦死した。 史料によれば、百済は458年宋に、490年と495年に南斉に将軍号などの官爵の除正を要求するだけでなく、北魏にも将軍号を帯びた使者を派遣しており、当該期の百済において、将軍号は非常に重視されていた[1]。この蓋鹵王の積極的な官爵号除正要求について、坂元義種は、この頃、既に倭がおこなっていた宋への官爵号除正要求の影響を受けたものではないか、と指摘している[1]。すなわち、「四月…己巳,以二倭国王珍一為二安東将軍一。」(『宋書』文帝紀・元嘉十五年四月条)、「讚死,弟珍立,遣レ使貢献。自称二使持節,都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事,安東大将軍,倭国王一。表求二除正一,詔除二安東将軍・倭国王一。珍又求レ除二正倭隋等十三人平西・征虜・冠軍・輔国将軍号一,詔並聴。」(『宋書』倭国伝)とあり、倭は蓋鹵王による457年と458年の除正要求に先だって、倭王珍が438年に、自らに「使持節,都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事,安東大将軍,倭国王」号を、さらに倭隋ら13人にも将軍号の除正を求めた。宋は倭王珍の自称号を認めず、安東将軍に冊立したに過ぎなかったが、倭隋ら臣僚への平西将軍・征虜将軍・輔国将軍の除正要求は認めた[1]。したがって、坂元義種が指摘するように、蓋鹵王が倭の影響をうけて宋に官爵号の除正を要求した可能性はある[1]。 457年(大明元年)10月には南朝宋の世祖より<鎮東大将軍>の爵号を受けただけでなく、458年には自ら百済国内で与えていた家臣団の仮の将軍号を世祖に認めてもらっている。南朝宋の側でも北魏への対抗のために、北魏及び高句麗の背後を牽制させる意図から、百済に対して高い評価をもって待遇した現われでもある。471年にも宋に対して朝貢を行なっている。 461年頃、王子の軍君昆支を倭国に人質として送りよしみを通じた。なお、『日本書紀』には、昆支が倭国に向かう際に伴った婦人が筑紫の各羅嶋(かからのしま)まで来たときに王子が生まれたので百済に送り返されたこと、その王子が武寧王であることを記している。詳しくは「武寧王#『日本書紀』の記述」を参照。 近肖古王以来100年にわたって、中国南朝とのみ通好してきた百済であったが、蓋鹵王に至って初めて北魏への接触を図った。472年(延興2年)には北魏に対して孝武帝即位の慶賀使節を派遣すると同時に上書して高句麗の非道を訴え、北魏が高句麗を討伐することを願い出た。北魏は高句麗・百済を視察させるために使者邵安を送ったが、邵安は高句麗から百済に行くことを阻まれ、やむなく北魏に帰国した。北魏は高句麗に対して叱責こそしたものの、結局のところ百済の願いは聞き入れず、これ以後蓋鹵王は北魏へ朝貢することはなかった。 百済への侵攻をもくろむ高句麗は、僧侶道琳をスパイとして送り込んできた。碁を好む蓋鹵王は碁の名手であった道琳を側近として身近に置き、道琳の勧めるままに大規模な土木事業を進め、国庫を疲弊させることとなった。国庫の空になったことを見届けた道琳は高句麗に戻って長寿王に報告し、475年9月、長寿王はこれを好機とみて3万の兵を率いて漢城に攻め入った。 高句麗の出陣を聞いて、蓋鹵王は王子の文周(後の文周王)を諭して南方へ逃れさせた(あるいは新羅に救援を求めに行かせたとも言われる)。高句麗軍は漢城を攻め、蓋鹵王は籠城を図ったが焼き討ちにより西方へ逃れたところを捕らえられ、阿且城 蓋鹵王は宋に対して自らだけでなく、臣僚への将軍号を要求している。こうした蓋鹵王代の対宋外交と関わって軽視できないのが、倭王の百済地域に対する軍事支配権要求である。すなわち、倭は「使持節 都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭国王」を称し、その除正を求めていた。?有王は430年に宋から「使持節 都督百済諸軍事 百済王」を授けられていたが、倭はそれを無視するかのように百済の軍事支配権を求めたのである[2]。百済をはじめとする朝鮮半島南部の軍事支配権を倭が宋に求めたことは、百済をして倭への警戒・不信感を懐かせることになったであろう。こうしたなかで看過できないのが、430年代から450年代にかけて百済と倭が疎遠となっていたという熊谷公男の指摘であり、『日本書紀』に428年から461年まで倭と百済との通交がみえないことから、百済と倭は基本的に友好関係にあったものの、この頃の百済は新羅と講和を結ぶなど新羅を重視しており、このことが百済と倭の疎遠の原因であったと説いた[2]。『日本書紀』は当該期の百済と倭の通交記事を伝えず、『三国史記』は高句麗の百済侵攻に際して、新羅の百済救援記事が認められ、高句麗に対抗する百済にとって、倭も重要であったが、百済と直接領土を接する新羅はそれ以上に重要であり、対倭外交の重要性は、それ以前と比べ相対的に低下したと理解される。かかる状況下で軽視できないのが、百済と倭の交戦である[2]。『日本書紀』神功紀六十二年所引『百済記』は、倭の沙至比跪(葛城襲津彦)が「加羅国」を討伐したが、百済に逃れた王子の要請によって、「天皇」が木羅斤資を派遣して「加羅」を復興させたと伝えている。これは干支を三運繰り下げた442年のことであり、「加羅国」とは大加耶を指し、「天皇」ではなく百済が木羅斤資を派遣したと考えられることから、5世紀半ば、倭はかねてからの友好国である金官国もしくは安羅国を足場として、大加耶に進出しようとしたが、大加耶の救援要請を受けた百済によって失敗に終わったことを伝えている。このような朝鮮半島南部における倭と百済との軍事的衝突は、百済の倭への警戒心をさらに強めることになったであろう[2]。443年、『宋書』倭国伝は「倭国王済遣使奉献,復以為安東将軍・倭国王。」とあり、倭済は宋に使者を派遣し、安東将軍・倭国王を除授されている。これに先だって倭珍は438年に「使持節 都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭国王」を称しており、おそらくこの時も倭済もこれを自称し、その除正を要求していたであろう。田中俊明は、倭が442年の大加耶進出の失敗をうけて、朝鮮半島南部の軍事支配権を宋から認めてもらおうとして、宋に使者を派遣したのではないかと指摘しているが、その可能性は十分にあり、倭は軍事的進出とともに朝鮮半島南部の軍事支配権を正式に宋に求めたのである。
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