蒸気船
[Wikipedia|▼Menu]
これにより、兵員輸送船、河船や小型砲艦の汽船化が主力艦に先立って普及した。
スクリュープロペラの登場初期の二枚羽根プロペラ

18世紀末頃から19世紀初めにかけて、多数のスクリュープロペラが考案されたが実用には用いられなかった。

イギリスのフランシス・ペティ・スミスが1836年5月31日にスクリュープロペラの特許を取り、「フランシス・P・スミス」号(6トン)を造り2ピッチの長いスクリュープロペラでの実験を始めた。偶然水中でプロペラが破損した後で船速が上がり、この後、1ピッチのものに変更して5.5ノットまで速度を上げられた。出資者が得られたため、シップ・プロペラ社を設立して本格的なスクリュー船の建造を始めた。スミスはその後、ラトラー号のスクリュープロペラを設計する。

同時期に、スウェーデン人ジョン・エリクソンはスミスの6週間後に特許を取り、翌1837年に船長14mの「フランシス・B・オグデン」号を造ってロンドンのテムズ川で100トンの石炭はしけ4隻を5ノットで曳いてみせた。英海軍高官は水面下で推進軸のための穴を嫌い、直進性が欠けているはず、風に対して不安定という評価によって軍艦へは不採用となった。

翌年の1838年には36トンの「ロバート・F・ストックトン」号を造ったが、イギリスでは進展が得られなかったため、1839年に帆走によって米国へ渡った。ストックトン号はプロペラを2つから1つに改造を受けた後、デラウェア川の曳き船となった。エリクソン自身はその後、米海軍の造船に協力した。

その後、徐々にスクリュープロペラを備えた船が造られるが、まだ帆船が主体であり、蒸気船でも外輪によって推進されるものが主体であった。1850年の船舶総トン数では帆船9に対して蒸気船1の比率であった。
ラトラー対アレクトナポレオン (1850)
フランス汽走戦列艦

1845年3月、イギリス海軍はスクリュープロペラと外輪の性能比較を行なうため、スクリュープロペラを備えた867トンのラトラー号と800トンの外輪蒸気軍艦アレクト号を風向きや帆走併用など条件を変えて競走させた。いずれもラトラーが勝ち、最後に綱引きを行なわせた結果、ラトラーが2.8ノットでアレクトを曳航したことで、ラトラーのスクリュープロペラが有効であると結論付けられた。

イギリス海軍では、1809年に建造された帆走74門戦列艦エイジャックス号が1846年にスクリュー推進の汽走戦列艦に改装された。初の汽走90門戦列艦はフランス海軍のナポレオン号が1850年に完成し、イギリス海軍でも1852年には最初から汽走91門戦列艦として建造されたアガメムノン号が就役した。

イギリスとフランスでは汽走軍艦の広範な建艦競争が始まる。両国が1853年のクリミア戦争に参戦する要因となったシノープ海戦、そして、過去のアヘン戦争など、浅瀬で激しい抵抗に出くわした場合、機動力に富んだ喫水の浅い汽走砲艦が有利であることは認識されていた。
外輪蒸気船の終焉

19世紀の大半と20世紀の前半にミシシッピー川で行われた貿易は、外輪式蒸気船によって行われた。現在も残っている船は僅かで、殆どの船は酷使によるボイラーの爆発か火災で焼失している。1900年の船舶総トン数では帆船4に対して蒸気船6の比率であった[2]
蒸気タービンの登場水管式蒸気ボイラー(断面図)
1.煙路 2.予熱部 3.上下水タンク 4.加熱水管

19世紀末、チャールズ・アルジャーノン・パーソンズによって蒸気タービンが開発された。

20世紀初頭まではレシプロ式の蒸気機関を搭載した大型船が建造されてきたが、第一次大戦後は次第にタービン式が主流となる。

蒸気タービンはレシプロ式蒸気機関に比べ振動・騒音が少なくて熱効率が高いという特徴がある。レシプロ式では3段膨張式があったが、タービン式であれば蒸気の膨張を最大限に利用できるので優れている。各タービンでは逆回転は出来ないために、逆転用タービンを備えるか、可変ピッチスクリューによって逆進を行なうことが多い。

蒸気ボイラーは当初、煙管式が主流であったが、高圧化が進むにつれ水管式が主流になる。水管式は水垢(スケール)の付着を防ぐ為に供給する清水の品質管理が求められる。タービンを回転させた蒸気は海水によって冷却された復水器によって再び液体に戻され蒸気ボイラーで循環使用される[3]

またこの時期、燃料も石炭から重油へと移行していった。
清への影響

では、1757年から対外的な貿易の港として広州のみを開港していたが、アヘン戦争の結果、1842年南京条約により、福州・厦門・寧波・上海も開港することになった[4]。これらの開港によって、それまで貿易に使用されていた木造帆船のジャンク船に代わって、清とシャムとの貿易などに蒸気船が用いられることが多くなった[4]

清は蒸気船を用いた海運会社の育成を試みたが、当時の企業経営は非効率で、欧米の海運会社と競争することは難しかった[4]。帆船は風の影響を受けやすく、航海の規則性で劣っており、アジア内部の物流でも欧米、特にイギリス船による物流が中心となった[4]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:35 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef