蒋介石
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?からすれば武漢国民政府は共産党に乗っ取られた政権に見えたのである[73]。?介石は党の規約にない武漢の臨時連席会議の正統性は認められないとし、南昌にとどまっていた党中央執行委員たちと党中央政治会議を招集、党中央と政府は暫時南昌に留め置くこと、第2期3中全会は南昌で開催することを決定した[74]。中国国民党中央委員会執行委員会主席・国民政府軍事委員会主席・国民革命軍総司令である?介石が総司令部を構える南昌には、国民政府主席代理の譚延?、国民党中央執行委員会常務委員会主席代理の張静江がいて、南昌の党中央政治会議は組織的正統性を有していた。しかし、武漢側の工作により南昌の党中央執行委員の多くは武漢に赴いたため、南昌側の正統性は揺らぎ、武漢側が優位となった[74]。北伐の軍事作戦中ということもあり、武漢側との決裂を避けたい?介石は、武漢訪問や汪兆銘の復職に賛同するなど妥協を図った。しかしながら?介石は軍権を握っており、江西や広東など共産党・左派の影響が強い地方の党部を自派へ転換していくなど、左派との対決に備えていった。

結局第2期3中全会は3月に武漢で開催され、党中央執行委員会常務委員会主席職の廃止と国民革命軍総司令の権限縮小、集団指導体制の確立などが決議された。これにより?介石の権限は掣肘を加えられることになった。さらに3中全会では党・政府の要職に国民党左派や共産党員が就くことが決議され、労工部長や農政部長など、労働問題や土地問題といった共産党が重視する問題を扱う閣僚には共産党員が就任することになった。共産党員の閣僚就任はこれが初めてのことであった。そして、汪兆銘の国民政府主席復職と、党中央執行委員会常務委員会の首席委員・党中央組織部長就任も決定された。

こうしたなか、北伐軍は3月22日に上海、24日に南京に入城した。4月12日、?介石は何千に及ぶ共産主義者の容疑を持つ者たちへの迅速な攻撃を開始(上海クーデター)。彼は胡漢民を含む保守の同志の支持を受けて国民政府を南京に設立した。国民党から共産主義者は排除、ソビエトからの顧問は追放され、このことが国共内戦開始につながる。汪兆銘の国民政府(武漢政府)は大衆に支持されず、軍事的にも弱体であり、まもなく?介石と地元広西の軍閥・李宗仁に取って代わられ、結局汪兆銘と彼の左派グループは?介石に降伏し、南京政府に参加した。
北伐の完遂

?介石は国民革命軍を四つの集団軍に再編し、北伐を再開した。北伐軍は1928年6月8日、北京に入城し、北京政府打倒という孫文の遺志を果たした。北京(のちに北平へ改称)に到達すると?介石は孫文の遺体に敬意を表し、首都南京に運ばせ、壮大な霊廟(中山陵)で祭った。そして12月には満州軍閥・張学良が?介石政府支持を表明(易幟)し、中国の再統一は成った。

?介石は、孫文の後継者としての彼自身の立場を確立するために演出を行った。1927年12月1日、?介石は浙江財閥宋嘉?(宋耀如、チャーリー宋)の娘で宋子文の妹 宋美齢(孫文の妻である宋慶齢の妹)と上海で結婚し、孫文の義理の兄弟となった。?介石は以前にも宋慶齢に求婚したが即座に断られている[75]
日中戦争

「最後の関頭」演説をする?(1937年)

忠貞足式に親身筆迹めた?介石抗日紀念碑

帥装に身を固めた?(1943年)

軍装に身を固めた?(1940年)

宋美齢、?経国(後列左)・?緯国(後列右)と

宋美齢と一緒にシェンノート

中国共産党とは、いわゆる「上海クーデター」以降敵対関係にあった。1931年に日本の関東軍による満洲事変が勃発し、国共内戦中であった?介石は、建国された満洲国を黙認した。?介石はそのまま積極的に抵抗せず、国共内戦を優先した。日本の外交官の広田弘毅有田八郎川越茂からは、日中共同で防共協定の締結を提案されたが?介石はこれを受け入れず、日中の防共協定は破綻になった。

1936年12月、?介石が張学良を督戦するために西安へやってきた。?介石は、「東北軍頼むに足らず」と知り、東北軍を福建に移し、代りに30万人の軍隊と100機の軍用機を集める計画を開始した。このことは、共産党鎮圧政策の強化にとどまらず、東北軍への懲罰、張学良への警告であった。12月4日、?介石は再び西安に赴き、共産党・紅軍絶滅の最終決戦態勢をととのえ、東北軍・西北軍を督戦するために、陳誠・衛文煌など多くの軍首脳を招集した。12月10日、?介石主導の会議で、張学良の現職を解任し、東北軍とともに福建に移動させることを決定。これによって、中央軍が主力となる。11日夜の?張会談の際も?は張の提言を拒否する。12月12日、張学良と楊虎城は西安事件を起こして?介石を拘束し第二次国共合作を認めさせた。

1937年に起きた盧溝橋事件7月7日)を受けて、?介石は7月8日の日記に倭寇の挑発に対して応戦すべきと書き、翌日の7月9日には動員令を出し、四個師団と戦闘機を華北へ派遣した。ただちに軍政部長・何応欽上将に、部隊の編成に着手し、全面抗戦の準備を整えよと下令するとともに、第26路軍総指揮官・孫連仲将軍に、中央軍二個師を率い北上し、京漢線上の保定または石家荘に集結するように命じた。同時にまた各軍事機関に総動員を準備させ、戦時体制に入ることを命じ、次のような緊急措置を採った。(1) 戦闘序列の編成は、第一線百個師、予備軍約八十個師とする。七月末までに秘密に大本営及び各級司令部を組織すること[76]。7月19日までに北支周辺に30個師団、総兵力20万人を配備した(当時の朝日新聞報道では7月10日動員令、7月17日までに配備完了)。

7月11日、日本側は中国軍北上の情報を知り、「五相会議」を挙行して、関東軍一個旅団と朝鮮駐留の第二十師団、および航空隊十八個中隊を直ちに華北に派遣することを決定した。?介石は、7月13日、宋哲元に電報した。「盧案必不能和平的解決…中央決宣戦…萬勿単独進行」。いまや盧溝橋事件の和平的解決はあり得ない。政府は対日宣戦を決定した。決して単独行動をとってくれるな…との趣旨であり、日本側との和平妥協を禁止する指示である。?介石は廬山において「最後の関頭」演説を行い、現地軍の和平交渉を牽引した。7月19日に現地軍で結ばれたが、停戦に積極的な宋哲元を説得するため、熊斌参謀次長を北京に派遣した。その後突如前線の中国軍兵士が暴走し日本軍へ戦闘を起こし、廊坊事件(7月25日、北平・天津間で切断された電線を修復直後の日本軍が国民党軍から銃撃を受けたとされる事件)と広安門事件(7月26日、北平在住の日本人を保護するために事前通告ののち日本軍の一部が城内に入ったところ城門が閉ざされ、国民党軍第29軍が北平城内外の日本軍に放火を浴びせたとされる事件)で衝突が起きた。7月29日には?介石が談話を発表し、日本軍に対し徹底抗戦をする意思を示した。?介石の時局声明は、四条件(@中国の主権と領土は侵害させないA河北やチャハルの行政組織への不法な変更は許さない??など)をのむなら、交渉に応じる用意があることをほのめかし、逆に日本が軍事行動をここで中止しなければ勝算はなくとも日本に抗戦する決意を表明したものだった。しかし南京政府内部では、事態の拡大を望まず、できる限り早い停戦を求める声が優勢であった。

第二次上海事変で?介石は日本租界を総攻撃したことで全面戦争に突入し、日本軍の侵攻についても「日本軍は軽い皮膚病、共産党は重い内臓疾患」と例え、当初は国共内戦での勝利を優先していた。しかし、西安事件により第二次国共合作を強いられ、ドイツ流に精鋭化された国民党軍が戦った上海の四行倉庫での攻防戦は、租界を持つ欧米諸国につぶさに目撃されたが、各国の対日経済制裁を引き出すまでには至らなかった。?介石の精鋭部隊は全滅し、上海攻略後、日本は和平工作を開始し、1937年11月2日にディルクセン駐日ドイツ大使に内蒙古自治政府の樹立、華北に非武装中立地帯、上海に非武装中立地帯を設置し、国際警察による共同管理、共同防共などを提示し、「直ちに和平が成立する場合は華北の全行政権は南京政府に委ねる」が記載されている和平条件は11月5日トラウトマン駐華ドイツ大使に示され、「戦争が継続すれば条件は加重される」と警告したにも関わらず、?介石は即座に受理しなかった[77]。?介石が受理しなかったのは11月3日から開かれていたブリュッセルでの九カ国条約会議で中国に有利な調停を期待していたためとされるが、九カ国条約会議は日本非難声明にとどまった[77]。国民政府は11月20日に重慶に遷都を宣言し、首都南京からの撤退に?介石が反対し、固守方針を定めた。その後、トラウトマン大使は?介石へ「日本の条件は必ずしも過酷のものではない」と説得し、12月2日の軍事会議では「ただこれだけの条件であれば戦争する理由がない」という意見が多かったこともあり、?介石は日本案を受け入れる用意があるとトラウトマン大使に語り、これは12月7日に日本へ伝えられた[77]。その後、日本は南京攻略の戦況を背景に要求を増やし、賠償や華北の特殊化や日本軍の駐屯などの厳しい条件にした。結果、日中和平交渉は決裂した[78]。その後、近衛文麿は「国民政府を対手とせず」と述べ、日本と?介石政府との関係は1940年の桐工作まで最悪の状態になった。

台湾の研究者李君山は、このような列強の日本に対する実力制裁を期待する政略のために膨大な中国軍将兵が犠牲となったとして?介石を批判している[79]

南京戦の際に「倭寇(日本軍)は南京であくなき惨殺と姦淫をくり広げている。野獣にも似たこの暴行は、もとより彼ら自身の滅亡を早めるものである。それにしても同胞の痛苦はその極に達しているのだ」と1938年1月22日の日記に記している[80]

1938年、?介石は徐州に兵力を集結させて日本軍を引きつけ、武漢防衛の時間を稼ごうとしていた[81]。同年4月からの徐州会戦によって中国軍(国民革命軍)が敗戦、日本陸軍北支那方面軍に徐州の占領を許した。この敗走する中国の主力軍への追撃を阻止するべく、?介石は意図的に黄河の一部を爆破して川を氾濫させるという黄河決壊事件を承認した。同年6月、中国軍による黄河沿岸の爆破によって黄河が決壊、河南・安徽・江蘇の11市4000村に在する住宅・農地が破壊された住民は?介石を含む中国軍への非難を高めた。また、運悪く晴天が続いて氾濫水の蒸発が早かったことから、軍事作戦としての想定していた効果は得られなかった。

同年10月に日本軍が広州を軍事占領したことから、?介石を支えていた軍事補給ルートのひとつが事実上遮断されるに至る。香港に陸揚後、河川水路を利用して運搬されていた補給ルート(香港ルート)を失うが、しかし、他の補給経路(仏印ルート・ソ連ルート・ビルマルート)が残されており、各国からの物資供給は情勢に応じて継続していた。


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