蒋介石
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こうして?介石は国民党の権力を掌握することに成功したのである[64]

国民党・国民政府における主導権を掌握した?介石は、さらに最高権力者としての地位を固めていく。4月16日、中国国民党中央執行委員・国民政府委員連席会議において、?介石は国民政府軍事委員会主席に選出された。5月に開催された第2期中国国民党中央執行委員会第2回全体会議(第2期2中全会)では、?は党中央組織部長に就任した。?はこの会議で「党務整理案」を通過させ、中国共産党員を中国国民党の訓令に絶対服従させることとし、国民党中央部長職から共産党員を排除した。さらに7月6日の臨時党大会において、?介石は中国国民党の最高職である党中央執行委員会常務委員会主席に就任した。党と軍の最高職を得た?介石は、孫文の後継者としての地位を確実なものとしたのである。
北伐敢行、中国統一

国民革命軍を率いる?介石(1926年)

馮玉祥(左)、閻錫山(右)と(1929年)

北伐の開始詳細は「北伐 (中国国民党)」を参照

革命拠点である広東から北伐革命軍を組織して北上し、その過程で地方割拠の軍閥勢力を駆逐しながら最終的には北京政府を打倒して中国を統一し、南京に国民党政権を樹立する。これが孫文の追い求めた夢であった[65]。孫文の後継者を自負する?介石は、孫文の遺志を果たすべく北伐に乗り出す。

北京政府直隷派の呉佩孚が湖南省に進出を図ると、1926年5月、?介石は北伐先遣隊を湖南省に派遣し、呉佩孚と対峙していた省長代理の唐生智を支援した。唐生智軍と連携した北伐先遣隊は湖南省に橋頭堡を確保した。唐生智は国民政府に帰順し、その軍は国民革命軍に編入された。

6月5日、?介石は国民革命軍総司令に就任する。そして7月1日、北伐宣言および国民革命軍動員令を発した。北伐に参加する国民革命軍は全8軍25師団で編制され、総兵力は約10万であった。国民革命軍の中核は黄埔軍官学校出身の将校・兵士であったが、黄埔軍官学校での教育で精鋭部隊を拡充するのは短期間では限界があり、?介石直系の第一軍以外の軍団は、政治工作によって国民政府に帰順した雲南や広西の李宗仁(第七軍)、湖南の唐生智(第八軍)などの西南軍閥諸軍を吸収・改編したものであった。国民革命軍は北伐開始にあたり、非国民党系の部隊を多く抱かざるを得ず[66]、?介石は総司令として各軍の統率に手腕が問われることになる。7月9日、北伐誓師の儀式を挙行し、北伐敢行を誓った。このとき?介石は居並ぶ将兵に対し、「今や北洋軍閥と帝国主義者が我々を包囲している。国民革命の精神を集中し、総理の遺志を完成せんときである」「我が将士よ!諸君は同徳同心、恥辱を忘れてはならぬ。辛苦を厭うな、死を惜しむな、生を偸むな、壮烈なる死は偸生よりもはるかに光栄である。この国家と人民を守るのは実に我が将士である」[67]、と演説し鼓舞した。かくして?介石率いる国民革命軍は北伐に出陣した。

国民革命軍は湖南の呉佩孚、江西孫伝芳の軍勢を各個撃破し、破竹の勢いを見せた。湖南・湖北戦線では、北伐軍は7月11日に湖南省の省都長沙を支配下に置き、8月には湖南省全域を制圧した。さらに湖北省に進出し、辛亥革命記念日である10月10日には革命の勃発地である武漢を占領した。これにより湖南・湖北における呉佩孚の勢力は壊滅し、呉は河南に退いた。かくして湖南・湖北の地は国民革命軍の支配するところとなった。続く主戦地となった江西では、?介石自ら作戦指揮を執った。?介石は、総司令としての威信と精鋭部隊を養成してきた自負にかけて、この戦いに敗れるわけにはいかなかった。省都南昌の攻防戦では孫伝芳軍に苦戦を強いられ、1万人以上の死傷者を出したものの、?介石直系の第一軍と李宗仁率いる第七軍の奮戦により11月7日には南昌を占領、江西省から孫伝芳の勢力は一掃され、かの地もまた国民革命軍の支配に置かれた[68]。?介石は南昌に総司令部を置き、さらに攻勢に出る。12月には福建省も国民革命軍の支配下に入った。北方では馮玉祥が国民革命軍への帰順を表明し、11月下旬には陝西省を支配下に置いた。

北伐軍の快進撃は、国民革命軍を「我が軍」と呼ぶ民衆の支持なくしてはあり得なかった[69]。一つの地域が解放されると、農民・労働者・学生たちが沿道で国民党の党旗である「青天白日旗」を打ち振った[70]。?介石は南昌に総司令部を構えると「各省人民に決起を促す」という声明を発表し、北伐軍への支持と協力を訴えたが[71]、国民革命軍の支配下に入った湖南・湖北では、広東で養成されていた農民運動家を中心に農民協会が結成され、農民の武装化を進め、北伐の側面支援だけでなく、地主・土豪との激しい対立を繰り広げるようになった。農民協会の会員は国民革命軍の北上に呼応する形で激増し、1926年末には湖南省だけで約160万人に増加した[69]。これは国民革命軍にとって大きな援軍となった。他方、上海など都市部の自治運動も国民党の政治工作により反軍閥色を強めていき、北伐軍を支援した。

国民革命軍の快進撃によって?介石の威信は高まるばかりであった。
左派との対決

武漢占領を受けて広州の国民党中央は国民政府と党中央の武漢移転を決定し、1927年1月1日、国民政府は武漢に遷都した(武漢国民政府)。国民党右派の要人は?介石とともに北伐に参加し、南昌の総司令部に滞在していたため、武漢国民政府の要職の多くは左派勢力で占められた。?介石の権勢拡大に危機感を覚えた左派の陳友仁(国民政府外交部長)、徐謙(国民政府司法部長)、孫科(孫文の長男で国民政府交通部長)らは、ボロディンと結び、?介石から権力を?奪しようとする。武漢遷都直前の前年12月、先んじて武漢に入った彼らは、国民党中央と国民政府の臨時連席会議を組織して今後この会議が最高職権を行使することを宣言した。そして、1月3日、臨時連席会議は3月に国民党第2期3中全会を武漢で開催することを決議した。この3中全会の決議で?介石の権限を縛ろうというのが左派の計画であった[72]。さらに左派は領袖の汪兆銘をフランスから呼び戻して権力を強化しようとする。汪を国民政府主席に復職させて?介石を牽制しようというのである。

?介石は南昌の総司令部で軍事作戦を指揮し、武漢の国民政府に合流しようとはしなかった。?からすれば武漢国民政府は共産党に乗っ取られた政権に見えたのである[73]。?介石は党の規約にない武漢の臨時連席会議の正統性は認められないとし、南昌にとどまっていた党中央執行委員たちと党中央政治会議を招集、党中央と政府は暫時南昌に留め置くこと、第2期3中全会は南昌で開催することを決定した[74]。中国国民党中央委員会執行委員会主席・国民政府軍事委員会主席・国民革命軍総司令である?介石が総司令部を構える南昌には、国民政府主席代理の譚延?、国民党中央執行委員会常務委員会主席代理の張静江がいて、南昌の党中央政治会議は組織的正統性を有していた。しかし、武漢側の工作により南昌の党中央執行委員の多くは武漢に赴いたため、南昌側の正統性は揺らぎ、武漢側が優位となった[74]。北伐の軍事作戦中ということもあり、武漢側との決裂を避けたい?介石は、武漢訪問や汪兆銘の復職に賛同するなど妥協を図った。しかしながら?介石は軍権を握っており、江西や広東など共産党・左派の影響が強い地方の党部を自派へ転換していくなど、左派との対決に備えていった。

結局第2期3中全会は3月に武漢で開催され、党中央執行委員会常務委員会主席職の廃止と国民革命軍総司令の権限縮小、集団指導体制の確立などが決議された。これにより?介石の権限は掣肘を加えられることになった。さらに3中全会では党・政府の要職に国民党左派や共産党員が就くことが決議され、労工部長や農政部長など、労働問題や土地問題といった共産党が重視する問題を扱う閣僚には共産党員が就任することになった。共産党員の閣僚就任はこれが初めてのことであった。そして、汪兆銘の国民政府主席復職と、党中央執行委員会常務委員会の首席委員・党中央組織部長就任も決定された。

こうしたなか、北伐軍は3月22日に上海、24日に南京に入城した。4月12日、?介石は何千に及ぶ共産主義者の容疑を持つ者たちへの迅速な攻撃を開始(上海クーデター)。彼は胡漢民を含む保守の同志の支持を受けて国民政府を南京に設立した。国民党から共産主義者は排除、ソビエトからの顧問は追放され、このことが国共内戦開始につながる。汪兆銘の国民政府(武漢政府)は大衆に支持されず、軍事的にも弱体であり、まもなく?介石と地元広西の軍閥・李宗仁に取って代わられ、結局汪兆銘と彼の左派グループは?介石に降伏し、南京政府に参加した。
北伐の完遂

?介石は国民革命軍を四つの集団軍に再編し、北伐を再開した。北伐軍は1928年6月8日、北京に入城し、北京政府打倒という孫文の遺志を果たした。北京(のちに北平へ改称)に到達すると?介石は孫文の遺体に敬意を表し、首都南京に運ばせ、壮大な霊廟(中山陵)で祭った。そして12月には満州軍閥・張学良が?介石政府支持を表明(易幟)し、中国の再統一は成った。

?介石は、孫文の後継者としての彼自身の立場を確立するために演出を行った。1927年12月1日、?介石は浙江財閥宋嘉?(宋耀如、チャーリー宋)の娘で宋子文の妹 宋美齢(孫文の妻である宋慶齢の妹)と上海で結婚し、孫文の義理の兄弟となった。?介石は以前にも宋慶齢に求婚したが即座に断られている[75]
日中戦争

「最後の関頭」演説をする?(1937年)

忠貞足式に親身筆迹めた?介石抗日紀念碑

帥装に身を固めた?(1943年)

軍装に身を固めた?(1940年)

宋美齢、?経国(後列左)・?緯国(後列右)と

宋美齢と一緒にシェンノート

中国共産党とは、いわゆる「上海クーデター」以降敵対関係にあった。1931年に日本の関東軍による満洲事変が勃発し、国共内戦中であった?介石は、建国された満洲国を黙認した。?介石はそのまま積極的に抵抗せず、国共内戦を優先した。日本の外交官の広田弘毅有田八郎川越茂からは、日中共同で防共協定の締結を提案されたが?介石はこれを受け入れず、日中の防共協定は破綻になった。


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